港出づる海人の小舟のいかり縄
くるしき物を恋と知りぬる
(拾遺/恋一/638/よみ人知らず)
しばらく文章を書かないと、書くこと自体が億劫になってしまう。書かなかった理由はいくつかある気がしているけれど、たぶん一番大きいのは自分が停滞していることを実感したからだと思う。
歌は「港出づる海人(あま)の小舟のいかり縄」船出する漁師の小舟の碇の縄「くるしき物を恋と知りぬる」その縄を繰るではないが、この苦しいのを恋だとわかったよ、という感じ*1。出港するときの碇の縄、というモチーフは、単に「くるしき」を導く序詞としてだけではなく、船旅の始まりを象徴するという点で「恋と知りぬる」(苦しいのが)恋だってわかった と詠むこの歌の核と響き合っているようでいて好き。
自分の停滞に気づくと、ホメオスタシスというよくわからない外来語がふわふわした綿飴みたいに首の周りにまとわりついて、じんわり圧迫されているような恐怖がある。文章を書くということは、わたしが今のままでいることを決して許さないし、この歌の恋というのも停滞を許さない圧力がある。碇を引き揚げ、帆を広げろ。その恋を、書くことを、知ってしまったら、あたらしくなる義務がある。
たまたま居合わせた同じ桟橋の向こうの船も、碇を上げて船を出そうとしていた。わたしも、もう観念して碇につづく縄を引く。船を固定できるほどの重さに、縄も腕も悲鳴をあげていた。向こうの縄からも同じような音がする。わたしも、向こうの水夫も、その視線を、縄の先の水面の奥に注いでるのがわかるから、お互いに目を合わそうとはしなかったけれど、その気配はたしかにわたしを勇気づけたし、向こうもそうであったら、ちょっとうれしい。