縄の浦に塩焼く火のけ夕されば
行き過ぎかねて山にたなびく
(万葉/巻三/354/日置小老)
家の外から、人が笑ったりしゃべったりする声が聞こえると、ちょっと身構えてしまう*1。別に何か悪いことをしているというわけでもないし、なんかくやしい。
歌は「縄の浦に塩焼く火のけ夕されば」縄の浦に塩を焼いた煙(が上がっていて)夕方になると「行き過ぎかねて山にたなびく」まだ漂っていて山にたなびいている、という感じの歌*2。海だったり山だったりが「火(ほ)のけ」煙を追っていくうちに自然と目に入ってくるスケールの大きな歌なのに、その煙が「行き過ぎかねて」と停滞しているのがおもしろい。夕焼けに照らされた煙は、さっき塩を焼いていた炎みたいに濃いオレンジ色をしていると思うと、背景の山の緑色と相まって綺麗だろうな……。
ふと、このたなびいている煙は、別に夕焼けに染まりたくて染まっているわけではないんじゃない? とも思えてきた。もちろん、あのオレンジ色の煙はうんともすんとも言わない。たまたま風や気候の関係で「行き過ぎかねて」いるだけの煙は、別にそんなことは気にしていなさそうで、わたしが勝手に共感してみたかっただけだった。
海に山に火に夕焼けに、あの煙はたくさん友達がいてうらやましい。たまたま夕焼けと山とスリーショット撮ってもめっちゃ綺麗だし、その在り方に、どんなシチュエーションでも気にせずたゆたっていられる余裕みたいなものが感じられて、外の声にいちいち身構えちゃうわたしとは正反対な気もする。
時流に任せて行き過ぎかねて偶然夕焼けの中で綺麗なオレンジ色になった「火のけ」みたいに、自分の性格に嫌気と愛着を持ったままここまで生きてみて通行人の声をスルーできずに緊張しちゃうわたしにもハイライトがあったりするだろうかって、考えているうちに夜になってて煙もどこかへ行ってしまって、寒くなってきたからあったかくして、また歩き出して。