わたいりカウンター

わたいしの時もある

みっしりさびしい


まばらなる槇の板屋にをとはして
洩らぬ時雨は木の葉なりけり
(長秋詠草/52/冬歌十首)

 冬の落葉を描いた藤原俊成の一首。「まばらなる槇の板屋にをとはして」まばらな槙の板が屋根の家に音がして「洩らぬ時雨は木の葉なりけり」(でも)洩れてこない時雨は木の葉であるなあ*1、という感じの歌*2。洗濯物を干してるときに急に屋根から音がしたら、誰しもあせって外を確認すると思う。まして板葺きがまばらな粗末な小屋では、洗濯物どころか家にいる人の服が濡れてしまうのだから、屋根からの音を聞いた詠者の動揺はいかほどだっただろう。「洩らぬ時雨」という表現のあべこべさは、濡れる!と身構えていた作者の混乱であり、読者の興味を巻き込む力もある。それが最後に木の葉だと明かされる謎解きのような一首だ。

 けれど、もちろん短歌としての魅力も充分に具えている。1、2句目、4句目はマ行音で頭韻がなされていて、なにやら音がする頭上に読者の注意も向けさせる効果があった……とは言い過ぎだろうか。また3、5句目の「をとは」「木の葉」の押韻は、音の原因が木の葉であるという因果関係を押韻でも紐付けているところがなんともにくい。この歌で表現したいことと、頭韻や押韻などの修辞が有機的に結びついていて読めば読むほど味がするみっしりとした三十一文字になっている。

 この歌に魅了されて何度も読んだ読者なんかは*3「冬という季節を描くにあたって、板葺きの屋根の隙間が埋まるくらい木の葉が落ちた描写から、葉がすっかり落ちて枝だけになった寂しい木立の姿をほのかに想像させるなんて、こんなに奥ゆかしい冬の描写が今まであったか?」とネットに書き込むと思う。この歌の感情の核は時雨じゃなかった(濡れずに済んだ)「安心」だと思うのだけど、時雨じゃなくて落ち葉だったこと描写して、寂しい冬の到来を間接的にほのめかすこの「安心」と「冬」のとりあわせは、浅学ゆえか他に類を見なくてびっくりした。


*1:ここの「けり」は詠嘆で訳していますが、時雨かと思ったら木の葉だった、みたいなニュアンスなら過去でとるのもありかもしれません。

*2:参考:「平安鎌倉私家集」日本古典文学大系

*3:まあわたしのことですが……