春ごとに野辺のけしきの変わらぬは
おなじ霞や立ちかへるらん
(後拾遺/春/藤原隆経朝臣/12)*1
わりと祝い祝いしがちな立春の歌の中で、冒頭歌はすこし冷静に春を眺めていて気になった。結句「立ちかへるらん」の主語が「春」ならば、たしかに四季は巡るものだしな、とわからないでもないのだが、去年と「おなじ霞」が戻ってきたというのはなかなか新鮮でおもしろい。霞が立つのは春が来た合図なのだけれど、これが去年の霞かもしれないと歌うことで、暗にこの春は去年のと同じ春か?と読者に考えさせるところもある。また、春も霞もいろんな歌の中で立っていたが「立ちかへる」ことはあまりなかったと思う*2*3。
春の野辺の景色を去年と見比べる冷静な歌のようでいて、読んでみるとちょっと変な(おもしろい)ところがあって、実際は詠者も霞に向かって「去年もお会いしましたか?」と問うてみたくなるくらいには、春の訪れにうきうきしていたのかもしれない。そう仮定すると、会社から駅を跨いだところにあるHUBに行ったら、普段職場ではもの静かな人がW杯で盛り上がっているのをたまたま目撃したようなうれしさがあった。わたしは気づかれないようにそっと店を出た。
*2:後拾遺和歌集より前の勅撰集を調べてみたところ、春歌の中で「立ちかへ」が使われた一番古い例は
我宿にさける藤浪たちかへり すきかてにのみ人のみるらん(古今/春下/みつね/120)
があり、春との関係を匂わせているが、さすがに「霞」と「立ちかへ」の取り合わせだと
まきもくのひはらの霞たちかへり かくこそはみめあかぬ君かな(拾遺/恋三/816)
のみで、この霞は初句から続く序詞として「立つ」を導く霞であり、やはり「おなじ霞や立ちかへるらん」はかなり珍しい趣向と言えそうです。
*3:プレイリストでテーマ別に歌を並べるとなると、こういう今までの流れを汲みつつちょっと外した歌というのは重宝されそうですね