斎院の禊の垣下に殿上の人びとまかりて、あかつきに帰て、馬がもとにつかはしける
我のみは立もかへらぬ暁に
わきても置ける袖の露哉
(後撰/雑一/右衛門/1094)
誰かといっしょに歩いていて、ふと何かが気になって建物や景色の前に立ち止まるとき。置いてけぼりにされているのも構わずに思考に沈むのはなかなか贅沢なことだったかも知れない。最近、というかここ何年かはめっきりそういう機会がない。
歌は右衛門という人が「馬がもと」馬の内侍に宛てたもの。「我のみは立(たち)もかへらぬ暁に」(他の人は帰った後で)私だけは帰らないでそのまま明け方まで居たから「わきても置ける袖の露哉(つゆかな)」めっちゃ袖が濡れちゃったんだよな、という感じか*1。
きっと右衛門は、禊でたくさん人がいた時間からどんどん人が帰っていって、明け方、ひと気のなくなった周囲を見たのだ。きっとわたしだったら、何か自分が特別な瞬間にいるような錯覚を覚えると思う。夏祭りの後の電灯が消えて真っ暗になった矢倉だったり、徹夜でレポート書いた後の朝日だったりを眺めてムードに浸ったことを今もありありと思い出せるから。右衛門はそんな景色を馬の内侍と共有したかったんだろうか。
「わきても置ける袖の露哉」めっちゃ袖が濡れちゃったんだよな、というのはたんに朝露、というのもあるし、ムードに浸るあまり泣けてくるというのも言外に匂わすことに成功していにくい77だ。57577の中には暁であること、袖に梅雨が置いていることと、主にこの二つの情報しかなくて、景色についての具体的な情報が何一つないというのはちょっと不思議な構成な気もする。もしかしたら感動していたか、夜通し起きていて眠かったのか、目がしぱしぱして景色がよく見えなかったのかも知れない。わたしだったら、周囲の景色よりも自分の浸っている感傷の方が大事だったからこういう歌になっていたかも知れない*2。*3