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常夏の花をし見ればうちはへて
過ぐる月日の数も知られず
(拾遺/雑夏/1079/貫之/(前略)元良の親王の四十賀し侍ける時の屏風に)

 「そちらもお変わりないようで」なんて言葉を、かける機運ばかりが高まり続けている。最近ふと、年が明けてから知人と会う機会が全くなかったなと気づいたのだ*1

 歌は「常夏の花をし見ればうちはへて」夏まっさかりみたいな顔をして咲いてる花をじっと見ていると、とても華やかで「過ぐる月日の数も知られず」過ぎていく時間の流れもわからなくなってきます*2という感じ。好きなところを2つ紹介させてほしい。

 まず夏に美しい花を見つけて見入ってしまうというシチュエーションがめっちゃいい。クーラーなんてない平安時代に、うだるような暑さに慣れてだんだん感覚が麻痺してくるのを、熱中してしまうほど花が美しい様子に援用するという発想が、五文字あたりの熱量ランキングで間違いなく上位に来るであろう「常夏の」を初句にぶち込んだ上で、二句目「し」三句目「うち」と連続で強調表現を用いることで、よく歌に落とし込まれている。この発想を形にする技の巧みさに、さすが古今集の撰者に選ばれたやつの歌はちげぇなぁ、と思ってしまった。

 もうひとつは、これが詞書にある通り元良親王が40歳を迎えたお祝いの時の歌としても、あんまりわざとらしくなくてすてきなところだ。春の桜なんかはやっぱり最後には散ってしまうし、咲き始めの頃なんかはちょっと寒かったりしてあんまりお祝いという感じがしない。その点「常夏の花」という表現は、これまでもずっとご活躍されていらっしゃったし、これからもずっとそう在られるのでしょうね、という含みが効く。それにいつまでも終わらないような夏の暑さなんて、老いとは正反対の生命力で満ち溢れてる。上っ面のヨイショじゃない、地に足ついた正統派賀歌の風格さえないだろうか。

 この歌、単に夏の歌として読んでも巧みな技術に裏打ちされた世界観を味わえるのに、贈答歌としても優れていてびっくりした。あんまり有名で食わず嫌いしていた貫之の歌への認識は変えたほうがいいみたいだ。ちょっと貫之の歌を真面目に読み返してみようと思う。

*1:それはそれとして、今わたしが「あなたも前会った時と変わらないね」というようなことを言われたら、たぶんそれはあんまり褒められてないんだろうな、と思った

*2:参考:「拾遺和歌集新日本古典文学大系