わたいりカウンター

わたいしの時もある

区切り方を間違えないようにしたい

河風の涼しくもあるかうちよする
浪とともにや秋はたつらん
(古今/秋上/(前略)かものかはらにかはせうえうしける*1ともにまかりてよめる/つらゆき/170)

 歌は風や川面に立つ波から、秋の訪れを感じている。「河風の涼しくもあるかうちよする」河風には涼しさもあるだろうか、打ち寄せる「浪とともにや秋はたつらん」浪といっしょに秋が立っている(秋になった)のだろうか*2。河のほとりのピクニック最高〜!というような興奮した気配など全くなく、ぼんやりと川風を感じているうちに秋の気配を感じたという穏やかな歌で読んでいて居心地が良かった。この歌は秋上の部立ての中で二首目に登場する歌で、秋真っ盛り(?)というよりも秋になり始めたぐらいの頃を詠んだ歌なのだと思う。「涼しく」と断定せずぼかした言い方が、まだ夏の気配も残る熱を帯びた風の中から、一筋の涼しさを見つけたみたいな微妙なニュアンスを歌に与えている。助詞一つとっても舌を巻く表現力だ。欧州のサッカーリーグではトラップひとつでスタジアムが湧く、みたいな逸話を聞いたことがあって、わたしはその感覚がいまいち腑に落ちなかったのだが、貫之のおかげでちょっとわかるかもしれないなと思えた*3

*1:詞書の「かものかはら」とは京都府鴨川の河原のことである。だがわからないのは「かわせうえう」である。川瀬うえうってなんだ。ウェイの一字違いじゃないか。川瀬のウェイに準じる何かか?鴨川のほとりで楽しく騒いでいる大学生みたいな感じだった訳?つらゆきって。と、文系陰キャのわたしは幻滅しかけたが、そもそも区切り方が間違っていた。かわせ/うえう、ではなくてかわ/せう/えう、つまり川逍遥(かわしょうよう)だったのである。コンプレックスをこじらせるのも大概にした方がいい。貫之からしたらとんだ濡れ衣である。

*2:参考:「古今和歌集日本古典文学大系

*3:海外サッカーを生で見に行こうぜ、と鴨川のほとりで座っている貫之を誘ったらどんな反応をするだろうか。川面を眺めてチルっている貫之はピンとこないという顔で「そうねー」と曖昧な相槌を打ちそうである。そりゃそうか、と納得してわたしがそこから離れようとすると、背後で立ち上がったような気配があった。「待って、それって蹴鞠ってこと?」その言葉はおおむねさっきの気のない相槌のような調子だったが、語尾にかすかに興奮の兆しがあったのをわたしは見逃さなかった。確かその年には日本を発ったんだっけ。結局ウェイだとか陰キャだとかは些細なことでしかなく、好きなように生きたらいいのだと、スタジアムで後ろの席の人に撮ってもらった貫之とのツーショット写真を見るたびに思い出す。幻覚ママ