わたいりカウンター

わたいしの時もある

わずかな春の距離に静寂が


雪を薄み垣根に摘める唐なづな
なづさはまくのほしき君哉
(拾遺/雑春/1021/女のもとになづなの花につけて遣はしける/藤原長能

 人との距離感とか、短歌との距離感のことを考えていたのでこの歌が気になってしまいました。訳すなら「雪を薄み垣根に摘める唐なづな」雪がとけて薄くなってきたから、垣根で摘めた唐なづなのなづなというように「なづさはまくのほしき君哉」なれ親しみたいと思うあなたであるなあ*1という感じでしょうか。

 ……恋歌で「摘める」っていうのが結構こわい。その唐なづなの花、あとはもうゆっくり枯れていくだけなのでは? でも雪がとけてなづなの花を見つけられた、というのはうれしいだろうな……。「唐なづな」までは「なづさは」を導く序詞だけれど、どのくらい意味を拾うべきかは読み手に委ねられているところに、大きな事故のない恋歌というか、良くも悪くも若さがあまり感じられず、すこし落ち着いたアプローチという感じもします。

 けれど、上三句に導かれた「なづさは(なづさふ)」の意味もなかなか取りかねるというか、解釈には繊細さが必要そうです。新大系には『「なづさふ」は、本来は水に浸り、漂うことを言い、水に浸るように、人にまつわり付く意』*2とあり、三省堂全訳読解古語辞典の「なづさふ」の二つの意味のうち、ひとつ目に《上代語》として同様の意味が紹介されていました。同辞書では続いてふたつ目に『なれ親しむ。なつく。まつわりつく。』とあります。困りました。「なつく」なのか「水に浸るように、人にまつわりつく」なのかで、全然歌の湿度が変わってきます。

 けれど考えてみれば「女のもとになづなの花につけて遣はしける」という詞書から、送られてきた実物として花があるとわかりますね。とすると序詞は深い意味があるというよりも、実際の状況、花を見つけたうれしさとか、それにつけてあなたを思い出して共有したくなったというところから、からっとした好意を拾うべきかもしれません。恋というよりも家族間のそれに近いのような……それはそれで違った湿度があるか。

 読んでいるうちに「雪を薄み」と景色や理由を説明してくれるところがすこしだけ過度な親切に思えてきて、肩を叩いて景色を指さすときの長能が体をすこし寄せてきているような気配がしてちょっと慄きました。そ、その服、藤のお香とか焚いてる? ……うまく言語化できないのですが、なんとなく湿っぽいというか、人の気配をわりあい近くに感じる歌な気がします。*3

*1:参考:「拾遺和歌集新日本古典文学大系

*2:拾遺和歌集新日本古典文学大系p172神楽歌578番歌脚注

*3:語に関する余談ですが「なずさはまし」の「まし」は願望の助動詞と思うのですが、それに「ほしき(欲しき)」と二重に欲しがっていてどう訳すのかと驚きました。三省堂全訳読解古語辞典「欲し」の用例紹介で

三日月の清(さや)にも見えず雲隠り
見まくぞ欲しきうたてこのころ
(万葉/巻十一/2464)

が挙げられていて(めちゃくちゃ助かる……)、旺文社文庫万葉集(中)」で調べると「見まくぞ欲しき」は「会いたいことだと思う」と訳されていて、「まくぞ欲しき」みたいな二重願望はまとめて「たいことだと思う」と訳していいのだなと安心しました……けれど、この上代の万葉歌を下敷きにしているなら、「なづさふ」の意味が俄然しっとりしてくるというか……解釈むずかしい……。こうしてふらふら考えているうちに、人間との距離感にも和歌との関係にも正解はないのかもと思えてきました。(もう眠いので寝ますが、古今後撰あたりにこのような二重願望の表現が全くないとなると、俄然しっとりというのが現実味を帯びてくると思います。逆に用例がままあればその分だけ別の分岐の可能性があがるという認識でいます。あるいは二重願望について論文を探すほうが早いかも。この歌沼すぎるよ……)