わたいりカウンター

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所は同じく付ける可き

春の夜の月は所をわかねども なほすみなれの宿ぞ恋しき
(和泉式部集 続集/26/旅なる所にて、月を見て)

 歌は「春の夜の月は所をわかねども」春の夜の月は場所を選ばず照らすけれど「なほすみなれの宿ぞ恋しき」やはり住み慣れた家の月が(澄みなれて)恋しいよ、という歌。*1
 旅先で見た月がなんだか物足りないというか、家で見た月が恋しくなってしまう歌。春の夜の歌であることと、「すみなれ」がすてきで何度も読んでしまった。
 この歌の月の光のように比較的いろんなところで享受できて、でも代えがたいひとつがあるものが私にあるだろうか。そう考えてぱっと出てきたのがたまに行っていたバーのラムフィズだった。けれど、通っていつも頼んでそのうちに教えてくれたレシピは、ほぼほぼ絶版のめちゃつよいラムを香り付けに少し入れているというもので、とても再現できるものではなく(だから教えてくれたのだと思う)、どこでも同じように照っている月とはやっぱり違う感じがする。
 そういえば、マクドナルドのある店舗で出てくるポテトがちょっと異様なおいしさという話があった。そういうのの方がたぶん近い気がする。素材は一律。だからこそ。
 そして「住み」と「澄み」がほのかに掛詞になっていてすてきなのだけど、なんでほのかかといえば「澄み慣れる」が、あまり聞かない言葉だから。でもこの「澄み慣れる」というのは、なんだか、住み慣れた家だから自然と「澄む」ことにも慣れている、いつもの自然体が輝いているみたいな日常賛歌にもとれてほほえましい。
 少し前までの私の生活と言えば、食い扶持一点張りの仕事と家庭教師とうまくいかなくなってしまった人間関係のいくつかと偶にバーの店番というような感じで息つく暇がなく、摩耗して、なんか、うん? なんだこりゃ? というようなていたらくで、誰か私を大切にしてくれ、というような聞くに堪えない悲鳴を心の中だけであげている感じに、だめだった。
 今はとにかくしんどい人間関係については可能な限り縮小して、家庭教師は第一志望合格の報に安堵し、仕事もまあできないなりに慣れてはきて、少しずつ時間を持て余せるようになってきて、そうして、縦スワイプのショート動画で「試してみてね!」という声を作務衣の男性から何度も聞いたり、心の貧乏揺すりに付き合ってくれる有象無象の短い動画ばかり観るようになって、なんか時間があるのにすり減ってるような気がして、書く、書くのか? だってすこし、というかかなり怖かった、今読んでも自分でいいなと思う文章がなぜかいくつもあるし、たっっっまに褒めてもらえることとか、この文章良かったみたいな声も聞くし、そういう大事にできる文章のとなりに、もう一度文章書けるんだろうかという、そういう怖さで、でも、気になる和歌のことを考えて言葉にしていくうちに、いっしょに自分のことも考えられて輪郭がはっきりしたりもして、そうしてはじめて手の施しようがあるみたいなところがあるから、しょうがないよな、良く聞いていた曲の英詞をぼんやり眺めていたらI'm stronger now, I'm ready for the houseと言われてしまったし、好きな作家が昔書いていた日記を本にするって、今月出るって言うし、これだけ心を言葉にしてくれた歌の作者に恥じないように自分もやってみたいって思ったんだったわ、とてもじゃないがきれいに澄んでいる訳ではない私のことなんて、読んで書いてるときしかよくわからないし

*1:参考:「和泉式部集全釈 続集篇」笠間書院