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わたいしの時もある

作者未詳

見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は
花のみ咲きて成らずかもあらむ
(万葉/巻七/1364/比喩歌/花に寄せる歌七首(のうちの一首))

 せっかく採用いただいた会社だったが、仕事内容と環境のハードさ故か、気づいたら左耳が軽い難聴になっていた。続けていくことに気持ちもついていかなくなってしまって、ご迷惑をおかけして申し訳ないけれど退職させていただいた。体を壊すまで働くこととは無縁だとどこかで勝手に思っていたので、なんか悔しくて、別に自分はなんでもできる訳じゃないんだなとわかって、その前提にちょっと恥ずかしくなったり、それがわかっただけ無駄なチャレンジではなかったと思ったりしている。

 冒頭歌は「見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は」見たいと思って恋焦がれて待っていた秋萩がさあ「花のみ咲きて成らずかもあらむ」花だけ咲いて実を結ばないってこともあるだろうね、という歌*1

 見まくー見る、というのはただ見るだけじゃなくて、花の色に目を奪われたり心を託したりすることまで含めて、見るという言葉なのだと思う。その「見る」に圧縮された感情が大きいというのもあって、下の句の読みには、恋をしているけれどそれが成就するとは限らない、という期待ゆえの不安が描かれているという解釈もある。比喩歌だし、わたしにもその解釈はしっくりくる。

 その上で、たしかに恋の成否もこわいけれど、わたしは仕事が続けられなかったことを仮託してしまった。別に仕事を恋ひつつ待っていたつもりはない。むしろ、迎えに行き過ぎてしまった。かと言って全部受け身で待っていても仕事にならないし、つまり多分、その塩梅をうまくやるのが、わたしは下手なのだ。だから、できなかったことを経て次の仕事を探すのは、成らずかもあらむ、失敗がチラついて、正直、あんまり気が進まない。

 歌に戻ると、作者は、未だ秋萩の行く末を知らない。その不安もわかるけれど、もう結果が決まってしまったという訳でもないのだ。うまくいったらいいねって話しかけようと、作者の肩に触れようとした。一歩踏み出したけど、伸ばした手は空を切った。前にも後ろにも誰もいない。ただ、一歩踏み出したことだけが残った。そうしているうちに、次の仕事こそは、とちょっとだけ自分にも期待してみようかという気持ちになっていた。

*1:参考:「萬葉集(2)」日本古典文学全集