わたいりカウンター

わたいしの時もある

液晶に急いで霧がかかってほしい時


行く道の紅葉の色も見るべきを 霧とともにやいそぎたつべき

(後拾遺/羈旅/501/前/十月許に、初瀬に参りて侍りけるに、あか月に霧の立ちたるをよみ侍りける)

 仕事から帰って、机に向かって本を読み作業をするまでに、誘惑が多すぎる。
 歌は、これから進む道の、紅葉の色も当然見るべきなのに、霧と一緒に(紅葉が見えないまま)急いで出発しなければならないのか? という歌う*1
 答えはもちろんYESだろう*2。出発しなければならない。誘惑が見えないうちに。
 ソシャゲのデイリーだとか、登録チャンネルの新しい動画、SNSなど、気づけば液晶へと指を誘われている。それらが必要なときも勿論あるし、同様に机に向かって自分の心の輪郭をはっきりさせておきたい日もある。そういう日は、触れている機器の液晶なんかに霧がかかって欲しいものである……平安の人間にそうこぼしたら「娯楽のあふれた時代の方は高尚なことで悩んではるなあ」などと言われてしまいそうな気もするが。

*1:参考:「後拾遺和歌集」新日本古典文学体系

*2:後拾遺502次の歌に返歌もあり、その歌でも急いで出発しようと歌われている「色し見えなば道もゆかれじ」紅葉の色なんて見えちゃったら、道を進むどころじゃないから と

袖が濡れている理由

音になきて漬(ひ)ちにしかども春雨に濡れにし袖と問はばこたへん
(古今和歌集/恋二/577/大江千里)

 しんどい時に、誰かとそれを共有できたら楽なのだろうと、理屈ではわかっている。けれど、人間には楽になりたいという気持ちの他にも、いろんな感情がある。
 歌は「音になきて漬(ひ)ちにしかども」声を出して泣いて(袖が)濡れてしまったけれど「春雨に濡れにし袖と問はばこたへん」春雨で濡れてしまった袖なのだと、聞かれたら応えるよ*1 と歌う。
 一目読んで笑ってしまった。恋歌として採られているから、恋を隠す、という感覚が第一義だとは思う。しかし、涙で濡れた袖を春雨のせいだと言い張られると、虚勢を張っているのを見るようで微笑ましさが先に来る。
 しかし誰にだって、覚えのある虚勢ではないか。
 往来で転んだ時の、痛さよりも、先にいたたまれなさがくるあの感覚。あの時自分のしているであろう顔、必死に何もなかったと装い、装いきれていない歪な真顔*2。あの時の恥ずかしさも、今なら笑って思い出せる気がする。
 

*1:参考:新日本古典文学大系「古今和歌集」

*2:仕事がうまくいかなくて上司に嫌われてさ、小さい職場で二者面談で都度やなこと言われるとか、こういうのって、なんか恥ずかしくてなかなか他の人に相談したりできなくて、ほら、SNSでも仕事の話はなんかみんなどうにかやっている感じがしてさ、でも転職も逃げみたいでなんかムカつくし、私がほんとうに嫌がらせを受けるべき人材だったらって怖さも少しあったかも、悪いのは自分もかもみたいな、まあそれで意地張ってその職場で我慢して淡々と、戦々恐々と仕事してさ。何年か。だけど、連休とかで時間空けて冷静になった時やっぱりやめようって決めれて。あのしんどさ、辞めてから思い返すと、まんま小学校の時いじめられてた時の感覚だったんだよな。今は転職して、幸い前よりのびのびやらせてもらえるとこで、少し肩の荷が下ろせて、それでようやくまた文章書こうと思えるようになってきて

所は同じく付ける可き

春の夜の月は所をわかねども なほすみなれの宿ぞ恋しき
(和泉式部集 続集/26/旅なる所にて、月を見て)

 歌は「春の夜の月は所をわかねども」春の夜の月は場所を選ばず照らすけれど「なほすみなれの宿ぞ恋しき」やはり住み慣れた家の月が(澄みなれて)恋しいよ、という歌。*1
 旅先で見た月がなんだか物足りないというか、家で見た月が恋しくなってしまう歌。春の夜の歌であることと、「すみなれ」がすてきで何度も読んでしまった。
 この歌の月の光のように比較的いろんなところで享受できて、でも代えがたいひとつがあるものが私にあるだろうか。そう考えてぱっと出てきたのがたまに行っていたバーのラムフィズだった。けれど、通っていつも頼んでそのうちに教えてくれたレシピは、ほぼほぼ絶版のめちゃつよいラムを香り付けに少し入れているというもので、とても再現できるものではなく(だから教えてくれたのだと思う)、どこでも同じように照っている月とはやっぱり違う感じがする。
 そういえば、マクドナルドのある店舗で出てくるポテトがちょっと異様なおいしさという話があった。そういうのの方がたぶん近い気がする。素材は一律。だからこそ。
 そして「住み」と「澄み」がほのかに掛詞になっていてすてきなのだけど、なんでほのかかといえば「澄み慣れる」が、あまり聞かない言葉だから。でもこの「澄み慣れる」というのは、なんだか、住み慣れた家だから自然と「澄む」ことにも慣れている、いつもの自然体が輝いているみたいな日常賛歌にもとれてほほえましい。
 少し前までの私の生活と言えば、食い扶持一点張りの仕事と家庭教師とうまくいかなくなってしまった人間関係のいくつかと偶にバーの店番というような感じで息つく暇がなく、摩耗して、なんか、うん? なんだこりゃ? というようなていたらくで、誰か私を大切にしてくれ、というような聞くに堪えない悲鳴を心の中だけであげている感じに、だめだった。
 今はとにかくしんどい人間関係については可能な限り縮小して、家庭教師は第一志望合格の報に安堵し、仕事もまあできないなりに慣れてはきて、少しずつ時間を持て余せるようになってきて、そうして、縦スワイプのショート動画で「試してみてね!」という声を作務衣の男性から何度も聞いたり、心の貧乏揺すりに付き合ってくれる有象無象の短い動画ばかり観るようになって、なんか時間があるのにすり減ってるような気がして、書く、書くのか? だってすこし、というかかなり怖かった、今読んでも自分でいいなと思う文章がなぜかいくつもあるし、たっっっまに褒めてもらえることとか、この文章良かったみたいな声も聞くし、そういう大事にできる文章のとなりに、もう一度文章書けるんだろうかという、そういう怖さで、でも、気になる和歌のことを考えて言葉にしていくうちに、いっしょに自分のことも考えられて輪郭がはっきりしたりもして、そうしてはじめて手の施しようがあるみたいなところがあるから、しょうがないよな、良く聞いていた曲の英詞をぼんやり眺めていたらI'm stronger now, I'm ready for the houseと言われてしまったし、好きな作家が昔書いていた日記を本にするって、今月出るって言うし、これだけ心を言葉にしてくれた歌の作者に恥じないように自分もやってみたいって思ったんだったわ、とてもじゃないがきれいに澄んでいる訳ではない私のことなんて、読んで書いてるときしかよくわからないし

*1:参考:「和泉式部集全釈 続集篇」笠間書院

枯れ葉も風を帆に受けて

 列車の窓際に伸びる一列のシートは、休日だというのに、そのふわふわした座面のほとんどが昼下がりのあたたかな光に照らされていた。左右にも向かい一列にも、他に誰もいない。冬でも屋内で陽気がいいと暖かくて、私は少し油断していた。
 ブレーキの重力がゆるやかになくなるとドアが開いた。乗り降りする人はない。けれど、木の葉が一枚、心地よいくらいの涼しい木枯らしに紛れて、まるで動く歩道に乗っているみたいに、一定の速度を保ったまま床を滑るように入ってきた。それがドアと垂直にまっすぐ入ってきた所までは我慢できた。だが、列車のなかほどまで来たところで、ドアが閉まり発車すると、今度は動き出した列車の中に吹く風に乗って向きを90度変えて、横に伸びる座席と平行にするすると動いて、やがて私の足下まで来るとぴたりと止まった。
 ――野良の木の葉になつかれてしまった。
 午後の日差しに照らされた木の葉を思わずに写真に収め、しばらくして目的地で降りた。木の葉は乗っている間ずっと私の足下にいた。人が近くにいなかったから、ほころんだ顔を無理につくろわなくて済んだのはよかったけれど、なんだか木の葉に感情移入してしまって、その日1日、落ち葉を踏まないよう苦心するのはちょっと大変だった。

月には月の

かつみれど うとくもあるかな 月かげの
いたらぬさとも あらじとおもへば
(古今/雑上/880/月おもしろしとて凡河内みつねがまうできたりけるによめる/つらゆき)

 先日、転職サイトから応募した会社の一次面接へ伺った。わたしとしては好感触だったが、そういう時に落ちていたりすると余計に悲しくなるので、こわい。今は連絡待ちである。
 歌は、月が綺麗だからって凡河内躬恒が尋ねてきた時に、紀貫之が詠んだ歌。「かつみれど うとくもあるかな 月かげの」一方で(親しく)眺めているけれど、あんまり親しいって感じでもないよな。月の光の「いたらぬさとも あらじとおもへば」届かない里なんてないって思ったらさ*1
 月に心を奪われて眺めもするけれど、別にわたしだけに照っているというわけじゃないのに気づいて、それを拗ねたような歌いぶりだ。なんだか、気の置けない友人の愚痴を居酒屋で聞いているみたいなうれしさがある。
 また、大系の頭注にもあるように、訪ねてきた躬恒を歓迎する一方で「どーせ他の奴のところにも行ってんだろ?」みたいに、月に仮託して貫之が躬恒にだる絡みしている構図を透かし見ることもできそうだ。そんなに友達が多くないからか、わたしも恥ずかしながらそういう気持ちになることもあるので、ちょっとわかってしまった。あらかじめ絶望しておくことは、のちのちつらい思いをする自分を守ることではある*2
 企業の面接にしたって、別にわたしだけが応募してるわけでもない。話しやすかったとして、それは特別わたしにというよりも、もともと風通しの良い雰囲気の会社なのだろう。それはわかる。わかっていてなお、期待してしまうのだから、ままならない。
 月には月の、会社には会社の都合があるだろう。自分から何かに期待しておいて、その期待を抱えている状態がつらいというのはなんとも身勝手だと思う。けれど、親しい間柄だからなのか貫之が躬恒にこういう歌を送っていたって知って、すこし楽になった。

*1:参考:「現代語訳対照 古今和歌集」旺文社文庫 「古今和歌集」日本古典文学大系

*2:文章を上げてから気づいたのですが、それはそれとして、この歌を軽口と取ることもできるかもしれない。躬恒と張り合って「別にお前んとこの月だけが綺麗ってわけじゃねーよ? 俺のところにだって綺麗な月が照ってるし、みんなのところにだって照ってますけど?」ってひとしきり言い終わった貫之が、それから月を見て綺麗だなと思ってた自分をちょっと客観視して「だから俺のところだけに綺麗に照ってるわけでもないんだわ……知ってたけどね!」って、ちょっと悲しそうな顔をしたかもしれない

冬の敷物

よもすがら嵐の山に風さえて
大井の淀に氷をぞしく
(山家集/561/冬歌十首(のうちの一首))

 今日は風が強くて、でもいつもよりはすこし暖かい陽気だった。春の気配がしてきた。
 歌を訳すなら「よもすがら嵐の山に風さえて」一晩中嵐が吹く山で風はつめたくて「大井の淀に氷をぞしく」大井の水の淀みに(風が)氷を敷いている*1
 つめたく強く吹く風から冬の気配を掬い取ったような歌。冬、家の中で嵐の音から想像して詠まれた歌かとも思ったけれど、どことなく山にいて読んだ気配もする。「しく」が推量ではなく現在形なので、氷が敷かれているのを今まさに寒風の中で西行が目の当たりにしている歌に思えるからだ。
 淀というのは、川の中で流れが遅く停滞している場所のこと。流れている水よりも留まっている水の方が多分凍りやすい……今でこそ常識のような気がするが、当時はどうだったのだろう。もしかすると、野山の川の流れが淀から凍っていくことは、よく旅をしている西行のような人にしかわからない感覚だったのかもしれない。屏風歌や想像の景を歌って冷たい風が「氷を敷く」と言われても、比喩なのだとすぐに理解できる。けれど、旅の中にあった西行が読んでいると思うと、どこからか風で飛んできた氷が絨毯のようにふわりと水面に敷かれた様子が本当にあったかもしれないと思ってしまう。一晩中嵐の山に風が冴えていることを西行が知っているのは、きっと西行も冷たい風に吹かれながら山にいたからではないか。寒くて眠れない中で、あんまり動かない淀の水面を見ていたら、そのうち凍り出した、まさにその時を見て、びっくりしてちょっとうれしくなって「氷をぞしく」と、強意の「ぞ」まで添えて氷が張った様子を誰かに伝えたくなったのかもしれない。*2

*1:参考:「山家集 金槐和歌集」日本古典文学大系

*2:日記:
 今日は随分前から読んでいた小説シリーズの最新作『冬期限定ボンボンショコラ事件』(四月刊行予定)の四行のあらすじを読んで、シリーズ最終長編が出るのだとじわじわと頭で理解できてきて、どうしよう! 終わっちゃうじゃん! とよくわからない悲鳴をあげてしまった。しばらくして落ち着いたあとも、こんな話なんじゃないか、みたいな想像がかつ消えかつ結びて、あらすじを知る前のわたしに全然戻れる気がしない。だって、だって冬期ですよ? 

作者未詳

見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は
花のみ咲きて成らずかもあらむ
(万葉/巻七/1364/比喩歌/花に寄せる歌七首(のうちの一首))

 せっかく採用いただいた会社だったが、仕事内容と環境のハードさ故か、気づいたら左耳が軽い難聴になっていた。続けていくことに気持ちもついていかなくなってしまって、ご迷惑をおかけして申し訳ないけれど退職させていただいた。体を壊すまで働くこととは無縁だとどこかで勝手に思っていたので、なんか悔しくて、別に自分はなんでもできる訳じゃないんだなとわかって、その前提にちょっと恥ずかしくなったり、それがわかっただけ無駄なチャレンジではなかったと思ったりしている。

 冒頭歌は「見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は」見たいと思って恋焦がれて待っていた秋萩がさあ「花のみ咲きて成らずかもあらむ」花だけ咲いて実を結ばないってこともあるだろうね、という歌*1

 見まくー見る、というのはただ見るだけじゃなくて、花の色に目を奪われたり心を託したりすることまで含めて、見るという言葉なのだと思う。その「見る」に圧縮された感情が大きいというのもあって、下の句の読みには、恋をしているけれどそれが成就するとは限らない、という期待ゆえの不安が描かれているという解釈もある。比喩歌だし、わたしにもその解釈はしっくりくる。

 その上で、たしかに恋の成否もこわいけれど、わたしは仕事が続けられなかったことを仮託してしまった。別に仕事を恋ひつつ待っていたつもりはない。むしろ、迎えに行き過ぎてしまった。かと言って全部受け身で待っていても仕事にならないし、つまり多分、その塩梅をうまくやるのが、わたしは下手なのだ。だから、できなかったことを経て次の仕事を探すのは、成らずかもあらむ、失敗がチラついて、正直、あんまり気が進まない。

 歌に戻ると、作者は、未だ秋萩の行く末を知らない。その不安もわかるけれど、もう結果が決まってしまったという訳でもないのだ。うまくいったらいいねって話しかけようと、作者の肩に触れようとした。一歩踏み出したけど、伸ばした手は空を切った。前にも後ろにも誰もいない。ただ、一歩踏み出したことだけが残った。そうしているうちに、次の仕事こそは、とちょっとだけ自分にも期待してみようかという気持ちになっていた。

*1:参考:「萬葉集(2)」日本古典文学全集