わたいりカウンター

わたいしの時もある

月には月の

かつみれど うとくもあるかな 月かげの
いたらぬさとも あらじとおもへば
(古今/雑上/880/月おもしろしとて凡河内みつねがまうできたりけるによめる/つらゆき)

 先日、転職サイトから応募した会社の一次面接へ伺った。わたしとしては好感触だったが、そういう時に落ちていたりすると余計に悲しくなるので、こわい。今は連絡待ちである。
 歌は、月が綺麗だからって凡河内躬恒が尋ねてきた時に、紀貫之が詠んだ歌。「かつみれど うとくもあるかな 月かげの」一方で(親しく)眺めているけれど、あんまり親しいって感じでもないよな。月の光の「いたらぬさとも あらじとおもへば」届かない里なんてないって思ったらさ*1
 月に心を奪われて眺めもするけれど、別にわたしだけに照っているというわけじゃないのに気づいて、それを拗ねたような歌いぶりだ。なんだか、気の置けない友人の愚痴を居酒屋で聞いているみたいなうれしさがある。
 また、大系の頭注にもあるように、訪ねてきた躬恒を歓迎する一方で「どーせ他の奴のところにも行ってんだろ?」みたいに、月に仮託して貫之が躬恒にだる絡みしている構図を透かし見ることもできそうだ。そんなに友達が多くないからか、わたしも恥ずかしながらそういう気持ちになることもあるので、ちょっとわかってしまった。あらかじめ絶望しておくことは、のちのちつらい思いをする自分を守ることではある*2
 企業の面接にしたって、別にわたしだけが応募してるわけでもない。話しやすかったとして、それは特別わたしにというよりも、もともと風通しの良い雰囲気の会社なのだろう。それはわかる。わかっていてなお、期待してしまうのだから、ままならない。
 月には月の、会社には会社の都合があるだろう。自分から何かに期待しておいて、その期待を抱えている状態がつらいというのはなんとも身勝手だと思う。けれど、親しい間柄だからなのか貫之が躬恒にこういう歌を送っていたって知って、すこし楽になった。

*1:参考:「現代語訳対照 古今和歌集」旺文社文庫 「古今和歌集」日本古典文学大系

*2:文章を上げてから気づいたのですが、それはそれとして、この歌を軽口と取ることもできるかもしれない。躬恒と張り合って「別にお前んとこの月だけが綺麗ってわけじゃねーよ? 俺のところにだって綺麗な月が照ってるし、みんなのところにだって照ってますけど?」ってひとしきり言い終わった貫之が、それから月を見て綺麗だなと思ってた自分をちょっと客観視して「だから俺のところだけに綺麗に照ってるわけでもないんだわ……知ってたけどね!」って、ちょっと悲しそうな顔をしたかもしれない

冬の敷物

よもすがら嵐の山に風さえて
大井の淀に氷をぞしく
(山家集/561/冬歌十首(のうちの一首))

 今日は風が強くて、でもいつもよりはすこし暖かい陽気だった。春の気配がしてきた。
 歌を訳すなら「よもすがら嵐の山に風さえて」一晩中嵐が吹く山で風はつめたくて「大井の淀に氷をぞしく」大井の水の淀みに(風が)氷を敷いている*1
 つめたく強く吹く風から冬の気配を掬い取ったような歌。冬、家の中で嵐の音から想像して詠まれた歌かとも思ったけれど、どことなく山にいて読んだ気配もする。「しく」が推量ではなく現在形なので、氷が敷かれているのを今まさに寒風の中で西行が目の当たりにしている歌に思えるからだ。
 淀というのは、川の中で流れが遅く停滞している場所のこと。流れている水よりも留まっている水の方が多分凍りやすい……今でこそ常識のような気がするが、当時はどうだったのだろう。もしかすると、野山の川の流れが淀から凍っていくことは、よく旅をしている西行のような人にしかわからない感覚だったのかもしれない。屏風歌や想像の景を歌って冷たい風が「氷を敷く」と言われても、比喩なのだとすぐに理解できる。けれど、旅の中にあった西行が読んでいると思うと、どこからか風で飛んできた氷が絨毯のようにふわりと水面に敷かれた様子が本当にあったかもしれないと思ってしまう。一晩中嵐の山に風が冴えていることを西行が知っているのは、きっと西行も冷たい風に吹かれながら山にいたからではないか。寒くて眠れない中で、あんまり動かない淀の水面を見ていたら、そのうち凍り出した、まさにその時を見て、びっくりしてちょっとうれしくなって「氷をぞしく」と、強意の「ぞ」まで添えて氷が張った様子を誰かに伝えたくなったのかもしれない。*2

*1:参考:「山家集 金槐和歌集」日本古典文学大系

*2:日記:
 今日は随分前から読んでいた小説シリーズの最新作『冬期限定ボンボンショコラ事件』(四月刊行予定)の四行のあらすじを読んで、シリーズ最終長編が出るのだとじわじわと頭で理解できてきて、どうしよう! 終わっちゃうじゃん! とよくわからない悲鳴をあげてしまった。しばらくして落ち着いたあとも、こんな話なんじゃないか、みたいな想像がかつ消えかつ結びて、あらすじを知る前のわたしに全然戻れる気がしない。だって、だって冬期ですよ? 

作者未詳

見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は
花のみ咲きて成らずかもあらむ
(万葉/巻七/1364/比喩歌/花に寄せる歌七首(のうちの一首))

 せっかく採用いただいた会社だったが、仕事内容と環境のハードさ故か、気づいたら左耳が軽い難聴になっていた。続けていくことに気持ちもついていかなくなってしまって、ご迷惑をおかけして申し訳ないけれど退職させていただいた。体を壊すまで働くこととは無縁だとどこかで勝手に思っていたので、なんか悔しくて、別に自分はなんでもできる訳じゃないんだなとわかって、その前提にちょっと恥ずかしくなったり、それがわかっただけ無駄なチャレンジではなかったと思ったりしている。

 冒頭歌は「見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は」見たいと思って恋焦がれて待っていた秋萩がさあ「花のみ咲きて成らずかもあらむ」花だけ咲いて実を結ばないってこともあるだろうね、という歌*1

 見まくー見る、というのはただ見るだけじゃなくて、花の色に目を奪われたり心を託したりすることまで含めて、見るという言葉なのだと思う。その「見る」に圧縮された感情が大きいというのもあって、下の句の読みには、恋をしているけれどそれが成就するとは限らない、という期待ゆえの不安が描かれているという解釈もある。比喩歌だし、わたしにもその解釈はしっくりくる。

 その上で、たしかに恋の成否もこわいけれど、わたしは仕事が続けられなかったことを仮託してしまった。別に仕事を恋ひつつ待っていたつもりはない。むしろ、迎えに行き過ぎてしまった。かと言って全部受け身で待っていても仕事にならないし、つまり多分、その塩梅をうまくやるのが、わたしは下手なのだ。だから、できなかったことを経て次の仕事を探すのは、成らずかもあらむ、失敗がチラついて、正直、あんまり気が進まない。

 歌に戻ると、作者は、未だ秋萩の行く末を知らない。その不安もわかるけれど、もう結果が決まってしまったという訳でもないのだ。うまくいったらいいねって話しかけようと、作者の肩に触れようとした。一歩踏み出したけど、伸ばした手は空を切った。前にも後ろにも誰もいない。ただ、一歩踏み出したことだけが残った。そうしているうちに、次の仕事こそは、とちょっとだけ自分にも期待してみようかという気持ちになっていた。

*1:参考:「萬葉集(2)」日本古典文学全集

わたしはまだアメフラシを愛用しているよ

脱ぎかへむ事ぞ悲しき春の色を
君がたちける心と思へば
(和泉式部集続集/34)

 出家した人(君)の事を衣替えの時に思い出した歌。「 脱ぎかへむ事ぞ悲しき春の色を」衣替えをしようとするのが、悲しいよ。春の色の(衣を)「君がたちける心と思へば」あなたが着ないと心(に決めている)と思うと*1
 スプラトゥーンというゲームをよくやっていた。今はたまに。昔は時間もあって熱心にやっていたものだから、友達を誘って一緒に遊んでいた。もうずいぶん長い付き合いのある学生の頃からの友人を誘ったのだ。わたしは一人で粛々と雨を降らす戦法で戦っていたのだけれど、そのうち、友達がTwitterを始めた。スプラ垢というやつで、ネット上で共通のゲームを好んでやるコミュニティに属して、マルチ対戦を楽しんでいた。そのうち、わたしもそこに呼んでもらうことがあった。気づけばわたしもアカウントを作ってやり取りをしたりするようになった。友人の方だって、味方が四人いるゲームでわざわざ、わたしとだけやる時間を設けるよりも、みんなでまとめて遊んだほうが、効率的だし、何より楽しいと思っていたと思う。実際、しばらく愉快にやっていたのだが、そのうち、友人の方が何かしらで揉めて、アカウントに顔を見せなくなってしまった。聞くと、スプラ自体をもうあまりやらないことにしたのだという。気づけばわたしは、ひとりで知らないコミュニティに紛れ込んでしまった人のようになった……訳では、正確にはなく、今も細々とスプラはプレイしたり呟いたりしている。それで、遊んでいる時は、あんまりそのやめちゃった友達のことは思い出さないのだけれど、それでも、思い出す瞬間がある。ゲーム内容の更新、アップデートの時である。味方にバフを飛ばす戦法で前作は楽しんでいた友人だったが、今作ではちょっとゲームの求める強さの性質自体が変わり、スプラの楽しみ方自体にもこれまで愛用していた戦法が使えない、閉塞感や疎外感を感じる時もあったかもしれない。わたしの愛用している雨を降らす戦法はそんなに強くはないが趣味で続けられる程度のマイナー戦法ではあった。そんな中、今日発表のアップデート予告でその雨におもしろい上方修正をいただいた。味方にバフをつける効果が新たに追加されたのである。アップデートの反映は明日からだ。一気にスタンダードな戦法として周知される……ということはないと思うが、それでもうれしいというか、自分のこれまで培った技術が役立ちそうで、なんだかゲームシステムに祝福されたような気さえちょっとして、うれしくて、明日が楽しみで、そしてその後、思い出したのだ。
 和泉式部は、自分が春の衣をしまう時、次にその衣を着るときのことを想像したのだと思う。もう一度春を迎える自分の姿と共に。けれど、そこで思い出したのではないか。出家して、もう二度と春の衣を着ないと決めた君のことを。

*1:参考:「和泉式部集全釈 続集編」笠間注釈叢書

あったかくしてお過ごしください

まどろめば吹きおどろかす風の音の
いとど夜寒になるをこそ思へ
(和泉式部続集/6/八月十余日のほどに、夜半ばかりに)

 冬なのになんだか最近はあったかい。あったかいけれど、夜はしっかり冬で、だから帰ってきてうたたねなんてしようものなら、起きたときには身体がキンキンに冷えている。けれど、なにかの拍子に目が覚めてから、寒さを感じるその時までに少しのタイムラグもあるような気がする。まず寝ていたことに気づく、意識を失っていたことに気づいて、そのあとで戻ってきた意識が寒いことに気づく、と、こういう段階をごく短い間にとおったあとで「さむっ」と独りごちるのではないだろうか。うたは、そういう瞬間が薄く重なっていることへの気づきも内包している。うとうとしていたら吹いて起こしてくる風の音で、一層夜が冷えてきたなーってさ、思うんだよね*1*2*3

*1:拙訳。注釈書は続の方しか持ってないけど、続のほうには注釈載ってない歌だった。

*2:聴いてた: Playing God Unplugged - YouTube

*3:仕事はじまって二週目くらい。結構ハードで疲弊してる。身体を冷やしてるって痛感する前にあったかいものでも飲んで、やすみつつ眠ったり起きたりしてやっていきたい

花に問う

故人西辭黄鶴楼
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空盡
唯見長江天際流
(黄鶴楼送孟浩然之廣陵/李白)

 友人が西の黄鶴楼を出て
 花の煙る(ように咲きわたる)三月に揚州をくだり
 遠くひとつの帆の影が碧い空に吸い込まれる
 ただ見ていた。長江が地平線に流れていくのを*1

 通勤の時に李白の詩をぼんやりながめていたら、教科書で読んだことのあるのがでてきてつい読んでしまった。
 李白が黄鶴楼から友達を見送ったことを詠んだ漢詩。昔読んだ時は単に広い景色がきれいだな、くらいなもんで、でてきても天際って地平線の別名としていいなとかだった。今読むとまたちがった感想が出力されておもしろかった。
 「煙花」という表現がぴったりすぎる。
 
 春霞を白い花に見立てたりその逆だったりは和歌でもある。でも煙はあんまり無かった気がして新鮮な表現だった。春の花はかなさ、たよりなさ、それと友を見送るさびしさを表わすのは、なるほど、霞よりも煙の方がふさわしい。
 近くで見る煙は枝に咲き広がる花かもしれないが、それが遠い景色の煙になると、ただ白く帯状に空に上がっていくだけになるだろう。その見立ては「孤帆」ひとつの帆というモチーフにつながっていく。
 この詩の特徴はカメラワークでもある。友→友が乗り下っていく船とその周り→友の船がちいさくなって地平線に消える→視点はそのままでしばらくうごかず景色を見つめる。段々とカメラが引いて、止まる。そのラストシーンにも「煙花」が響いてくる。煙のようなはかなさ、細く立ち上って行く煙のさびしさで心を描きながら、最後の遠景には花びらをさえ散らしてはいないだろうか。
 ここまで読んで満足して、現実に戻ってきたつもりだったのだが、自分の頭を軽く払って、それから猛烈に恥ずかしくなった。頭に小さく白い花弁が乗っている気がしたのだ。
 *2

*1:参考:『李白詩選』岩波文庫

*2:以下雑記

・これリピートながら書いてた→「High Mists of Spring」 Obadiah Brown-Beach - YouTube

・おもったよりも「ほのぼのと~」の歌と着想が似ていると感じてびっくりした。昔は全然似てないと思ってた。

・「ほのぼのと~」歌について昔書いてた。 ほのぼのと - わたいりカウンター

・エモーショナルな遠景の詩を読むと音楽を紹介したくなるのかもしれない。意識してなかったけど、わたしは似た歌を紹介した回のどちらもでyoutubeのリンクを貼っている。

親と落語を見に行きました

 チェーンの居酒屋で飲むよりも、読めない看板の中華屋で飲んだほうが安くておいしいじゃん! という時期は人生で来がちですね。わたしは最近そうです。今日はじめて行ったお店で、メニューに青島ビールというお酒がありました。
 そうです、京都に半年住んでいたときも、たまの贅沢と言って通った中華屋がありまして(牛肉とピーマンの炒めが一等好きでした)。そこでは一本は必ず青島ビールを頼んでいました。
 青島ビールというのはかなりあっさりしたビールで大変飲みやすいです。ですが、食前に真っ先に来るビールとしては少しもの足りない。ところが、味のしっかりした前菜やら主菜やらと食べると、これしかないというおいしさのビールに様変わりします。
 オーダーしてから一番最初に来て口にする飲み物というのもあって、これから来る料理が待ち遠しくなる一番の前菜みたいだな、と青島ビールのことを思い、それから、薄くて次への期待を煽るという意味では和歌における枕詞のような役割があるなと、そう胡乱な考えを始めるくらいには今もうすっかり酔ってしまっているようで。