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冬の敷物

よもすがら嵐の山に風さえて
大井の淀に氷をぞしく
(山家集/561/冬歌十首(のうちの一首))

 今日は風が強くて、でもいつもよりはすこし暖かい陽気だった。春の気配がしてきた。
 歌を訳すなら「よもすがら嵐の山に風さえて」一晩中嵐が吹く山で風はつめたくて「大井の淀に氷をぞしく」大井の水の淀みに(風が)氷を敷いている*1
 つめたく強く吹く風から冬の気配を掬い取ったような歌。冬、家の中で嵐の音から想像して詠まれた歌かとも思ったけれど、どことなく山にいて読んだ気配もする。「しく」が推量ではなく現在形なので、氷が敷かれているのを今まさに寒風の中で西行が目の当たりにしている歌に思えるからだ。
 淀というのは、川の中で流れが遅く停滞している場所のこと。流れている水よりも留まっている水の方が多分凍りやすい……今でこそ常識のような気がするが、当時はどうだったのだろう。もしかすると、野山の川の流れが淀から凍っていくことは、よく旅をしている西行のような人にしかわからない感覚だったのかもしれない。屏風歌や想像の景を歌って冷たい風が「氷を敷く」と言われても、比喩なのだとすぐに理解できる。けれど、旅の中にあった西行が読んでいると思うと、どこからか風で飛んできた氷が絨毯のようにふわりと水面に敷かれた様子が本当にあったかもしれないと思ってしまう。一晩中嵐の山に風が冴えていることを西行が知っているのは、きっと西行も冷たい風に吹かれながら山にいたからではないか。寒くて眠れない中で、あんまり動かない淀の水面を見ていたら、そのうち凍り出した、まさにその時を見て、びっくりしてちょっとうれしくなって「氷をぞしく」と、強意の「ぞ」まで添えて氷が張った様子を誰かに伝えたくなったのかもしれない。*2

*1:参考:「山家集 金槐和歌集」日本古典文学大系

*2:日記:
 今日は随分前から読んでいた小説シリーズの最新作『冬期限定ボンボンショコラ事件』(四月刊行予定)の四行のあらすじを読んで、シリーズ最終長編が出るのだとじわじわと頭で理解できてきて、どうしよう! 終わっちゃうじゃん! とよくわからない悲鳴をあげてしまった。しばらくして落ち着いたあとも、こんな話なんじゃないか、みたいな想像がかつ消えかつ結びて、あらすじを知る前のわたしに全然戻れる気がしない。だって、だって冬期ですよ?