百人一首の3番を嫌いになったり好きになったりしている。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
という歌があって、小学生の頃はなんとなくゴロが良くて嫌いじゃなかった。百人一首を暗唱する授業があって、必要に迫られてその時だけ覚えた。
中学生になって古文の授業で出会ったときは、枕詞に序詞にと、なかなか本題に入らないこの歌にいらいらした。「あしびきの」は「山」を導く枕詞で、「山鳥の尾のしだり尾の」までは「長」を導く序詞である。こんなに時間をかけて、あっちこっちに視線をふって「ひとりかも寝む」最終的に自分の話かよ、という落胆もあったかもしれない。あるいは57577という字数制限の中で、意味ある部分が少ないのを、味が薄いと感じたのかも。
大学生になって、授業の空きコマに図書館で読んだ北村薫のエッセイ『詩歌の待ち伏せ』という本で、またこの歌に出会った*1。「ひとりかも寝む」がしみた。好きじゃなかったはずなのに。今までみたいにずうっと同じ友達とつるんでいるということもなくなって、「ひとり」ということがちょっとずつわかるようになったのか。意味ある部分が少ないのは、寂しさを強調するためなのかもしれないと思った。わかる、ということがうれしかった。
今はどうだろう。大学生の頃とはまた少し違う。なんというか、そういう感情があったのだなと、歌を通して詠んだ人のことに思いを馳せるような、知らない人と話してるはずなのに居心地の良さを感じるような、そんな気持ちでこの歌を読んでいる。
ひとりで眠る寂しさ、頼りなさを、枕詞と序詞を用いて、薄いところ濃いところと、情報のグラデーションを作って「ひとり」を一層際立たせているのが良い、とかって言えなくもないし、大学生の頃はそういう理屈の理解に興奮した。
でも最近は、そういう面白さとは別に、誰かがこれを書いて、それを色んな人が見て、写したりしながら、人々の目に触れる場所に残っていること。そうして私の前に何度も現れては違った感情を呼び起こしてくることが、ありがたいことだと思う。
色んな人が百人一首の歌について書いている。本もたくさん出ているし、ウェブサイトもある*2。そういう状態をうれしいと思うのに、自分ではやらないのか?と思って、私が読んだこと、和歌とか漫画とか小説についてここで書いていきたいと思ったのでした。