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「うぐいすと同じものを見る」を見る

suihanki660.hatenablog.com

 昨日の書いたものを読み返していたら、ツッコミどころがたくさんあって頭を抱えた。黒歴史ってこうやって作られていくのだと納得がいった。同時に私は和歌をなぜ読んでいるのか、という難しい問いに対する答えに少しだけ近づけていたりして、そこはかなりよかったのだけど、いかんせん共有した方がいい情報が抜けていたり、よくわからない自己認識が急に出てきたりして不親切な文章になっている。今後歴史を繰り返さないために、ただの自虐にならないよう注意しながら、前回の文章を補うようにコメントをつけていきたいと思う。

題知らず 詠み人知らず
うぐいすの鳴く野辺ごとに来てみれば
 移ろふ花に風ぞ吹きける
  (古今/春下/105)

 うぐいすが鳴いている野辺に来てみたら、散っている花に風が吹いていた、という意味になるだろうか。
 状況としてはシンプルな歌だが、解釈が少し難しい。単に花が散るのを惜しむ歌と取るよりも、うぐいすが鳴き声を「見るべききれいな花があるよ!」と捉えて野辺へ向かったら花は散っていて、ああ、うぐいすは花が散っているから鳴いているのか、とわかる歌ととるべきか。
 梅を期待して野辺に来てそして落胆する、というところまでが詠者とうぐいすの共通体験と見なすと、この歌に奥行きが出てくる。
 そこにはみ人とうぐいすの間の自然を楽しみ、惜しむ同士としての共感があるように思えてくる。

 まずここまで。うぐいすが呼んでいたから来てみれば花が散っていた、という状況理解まではいいと思うのだけど、そこからの解釈が前振りなく独特だ。確かに春下の部立の歌は、春の中でも夏に近い時期の歌が選ばれている部分であり、散ってしまう花を惜しむ歌が多いのも確かだ。ただ歌をもう一度読んでみると、花を惜しんでいるというより今まさに散っていくはなびらが舞っている美しい場面に居合わせることができたありがたさみたいなものも感じられる。こないだうぐいすの声を辿って野辺に行ったらこんな景色を見たんだ、というように誰かと共有するための歌、というのが本懐のように思えてくる。
 その辺りの整理のためにも「また解釈が少し難しい」と触れていることに掘り下げが必要そうだ。まず、花が散っているこの景色を見てどういう感情を持っているのか。例えば驚きだったり落胆だったり、あるいは美しい景色を見ることができて嬉しいのかもしない。そしてその感情の主体として、詠者とうぐいすと読者という三つの立場があり、誰がどこまで感情を共有するかという点で、感情のバリエーションと合わせて幾通りものパターンが考えられる点。この辺りが、解釈を難しいとした理由なのではないかと思う。この辺りは触れないと不親切な要素だっただろう。申し訳ない。さて、最後だ。

私は話の構造を理解するのは比較的得意だと思うのですが、悲しい出来事を聞いたときなどはうまく相槌をうてなかったりするので、言葉は通じないなりに、目の前の光景(あるいは感情までも)無言で共有しているこのよみ人とうぐいすの関係がちょっとうやらましい。

 「私は話の構造を理解するのは比較的得意だと思うのですが 」……なんで急にイキリ始めたんだ?このあたりをまず噛み砕くと、私は人の話を聞いたり和歌を読んだりしていると、状況はなんとなく理解できるけれど感情については想像したり共感するのが難しいということが結構ある人間だ、ということを言いたかったのだと思う。昨日の文章からは一ミリも伝わってこないけれど。
 「言葉は通じないなりに、目の前の光景を(あるいは感情までも)無言で共有しているこのよみ人とうぐいすの関係がちょっとうやらましい。 」ここですね。ここまで散々右往左往と読みにくい文章で迷走していた思考が、まるで何事もなかったよう綺麗に着地している……というとかなり言い過ぎだが、なんとか自分の中にある創作物を摂取する動機のようなものを掴みかけているような気がする。この一点、この一点のおかげでかろうじて私は正気を保っていられるので、昨日の自分に感謝して今日は終わろうと思います。そしてなにより、ここまでお付き合いくださった方も、どうもありがとうございました。