熊野にまうで侍りし時、たてまつりし歌の中に
おく山の木の葉のおつる秋風に
たえだえみねの雲ぞのこれる
藤原秀能(新古今/雑上/1522)
秋風が吹いた結果を見る歌……なのですが、表面的な意味を追っていくのと、因果を示していると取るかで解釈が違ってきておもしろかったので紹介させてください。
訳すなら「おく山の木の葉のおつる秋風に」奥山の木の葉を落としてしまう秋風に(吹かれても)「たえだえみねの雲ぞのこれる」とぎれとぎれに峰には雲が残っている、という感じでしょうか*1。
単に言葉を追っていくと、「強い風でもぎりぎり耐えた雲すごい」という、珍しい場面を見て誰かと共有したい歌なのかと思えます。あるいは熊野詣で奉納した歌ですから、霊峰を称えるような意図もあるのかもしれません。
因果を考えるならどうでしょう。熊野詣で、つまり参詣の道中だとしたら、山の中にあって詠んだ歌ということ。傍点付きで聞いて欲しいのですが、山道では木の葉が落ちていなければ、木々の先にある峰の雲が見えるわけがない。
つまり秋風が強かったおかげでよい景色を見ることができた、という歌かもしれません。この場合、熊野に奉じた歌としては、強い風の中、山道を歩き抜いて参詣して奉じていますよ、と自らの信仰心を報告する含意が考えられそうです。
秋風に吹かれた順に散った木の葉と絶え絶えの雲が登場することで風の強さと向きが感じられ、詠者から見て近いものから遠いものへカメラが引いていく映像としての気持ちよさもある。読めば読むほど好きなとこが見つかる歌でした。