わたいりカウンター

わたいしの時もある

心あらば

・転職活動で書類通って面接したやつがお祈りされた。鏡を見るたびに証明写真を思い出し、芋づる式にそのことを思い出しては、目を閉じて少しだけ上を向くなどしていた。
・じゃが玉人あたりの値段が落ち着いてきたのに加えて、なすピーマンなどの夏野菜もいい感じの値段になってきてうれしい。
・『わかりやすいはわかりにくい?ーー臨床哲学講座』鷲田清一 を半分くらい(7章の途中まで)読んだ*1。とくに6章「待つことなく待つ?―ホスピタリティについて」が、期待と、単に待つこととを腑分けしてそれぞれについて述べていて読めてよかった。なんだかんだずっと気になっている百人一首の3番も少しだけ触れられていてびっくりしたり、そうか、あれは一人で寝ること、夜が終わること、朝が来ることなどを「待つ」歌なのだなと思ったりした。読み終わったらもうちょい何か書くかも。
・さっきの本の5章、時間の話の中で「消失の経験、離別の経験こそが〈時〉の移ろいを浮き立たせる。 だから、つねに「いま」が沸騰している幼児には〈時〉はない。 (中略)消えたものへの思い、そこに〈時〉は訪れる。*2」とあり、なんとなく古今和歌集の哀傷歌を読んでいた*3

深草の野邊のさくらし心あらば
ことしばかりはすみぞめにさけ
(古今/哀傷/832/かむつけのみねお)

訳すなら「深草の野辺のさくらし心あらば」深草の野辺の桜だって、心があるなら「ことしばかりはすみぞめにさけ」今年だけは墨染め色の花びらを咲かせてくれ(一緒に喪に服してくれ)、という感じか。深草は地名で、京都府伏見区深草のこと。
 こっちは喪に服しているというのにあっけらかんと明るく咲く桜に、理不尽にもちょっと腹を立てている雰囲気が「さくらし」の「し」強調の助詞によって作られていてよかった。鏡を見るたび無駄に反芻してしまってた今日のわたしに対しても、しょうがないなとか、しょうもないなとか思えて助かった。わたしは別に人なんだから落ち込んだり元気になったりしたっていいでしょ!
 

*1:筑摩書房 わかりやすいはわかりにくい? ─臨床哲学講座 / 鷲田 清一 著
 目次

  問いについて問う―意味について
  こころは見える?―ふるまいについて
  顔は見えない?―人格について
  ひとは観念を食べる?―生理について
  時は流れない?―時間について
  待つことなく待つ?―ホスピタリティについて
  しなければならないことがしたいこと?―責任について
  所有できないものしか所有できない?―自由について
  同じになるよりすれ違いが大事?―コミュニケーションについて
  できなくなってはじめてできること?―弱さについて
  憧れつつ憎む?―家族について
  未熟であるための成熟?―市民性について
  わかりやすいはわかりにくい?―知性について

*2:引用:『わかりやすいはわかりにくい?ーー臨床哲学講座』/鷲田清一/p. 73

*3:以下参考:「古今和歌集日本古典文学大系