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「煤く」煤っぽいってどんな感じ?

難波人葦火焚く屋の煤(す)してあれど
己が妻こそ常めづらしき
(万葉/十一/寄物陳思/2651/作者未詳)

 「難波人葦火焚く屋の煤(す)してあれど」難波の人の葦(の束で)火を焚いた室内みたいにすすけてはいるけれど「己が妻こそ常めづらしき」私の妻ってやっぱりいつもかわいいな〜*1

 すごい、すごい直球ののろけで、こっちまで笑顔になってしまった。部屋が煤けてしまったことを、このかわいいという妻への形容としてどう捉え直すかというところで解釈の分岐がある。一時的な煤ぼこりとしてみるか、年季の刻んだ不可逆の黒ずみとみるか、である。

 拾遺和歌集887番ではこの歌の異伝が人麿歌として紹介されている。新大系の訳では古びてしまった方、長年連れあった妻がかわいいという解釈で、なるほど、「常」いつもというのがこの解釈だと長い時間の幅を感じられて、語彙の取り合わせとして相乗効果があっていい。また、拾遺の時代からみて人麿歌として万葉時代の歌と意識して紹介されていて、その享受は古歌としてだっただろうと思うと、余計に拾遺和歌集での約としてはそれが正しいんだろうなと。

 ただ、わたしの偏見かもしれないが、一時的な煤ぼこりの汚れという解釈も捨てがたい。奥さんがおいてるとか若いとかは割とどうでもよくて、生活のちょっとしたシーンで顔がちょっと汚れててもかわいいし、ハレの日の綺麗さといったら向かうとこ敵なしだぜ? みたいなのろけの可能性も、歌を歌ってる人が目の前にいるかもと思って読むなら考えておきたい気もする。この場合、常めづらしきの「常」が示す内容は時間の幅ではなく、本当にいつも、汚れてたって綺麗なときだってどっちだってかわいいよ、という「常」になる。

 あなたは、どっちの解釈がしっくりきますか? あるいは他にも解釈があるかもしれません。

*1:参考:「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫