わたいりカウンター

わたいしの時もある

いろんな人が乗れる船

近江の海沖漕ぐ船に碇おろし
隠りて君が言待つわれぞ
(万葉/巻十一/寄物陳思/2440)

 家で相手の言葉、たぶん送った歌の返事かなにかを待っている歌なのだけれど、「隠(こも)りて」を導く序詞のスケールが大きく、ちょっとずれているところが味わい深い気がしているので紹介させてください。

 訳すなら「近江の海沖漕ぐ船に碇おろし」近江の海(琵琶湖)の沖まで漕ぎ出た船がいかりを下ろして停泊するように「隠(こも)りて君が言待つわれぞ」停泊するように、家にこもってあなたの言葉を待っているよわたしは*1、という感じ。

 近江の海を引き合いに出すことで成功しているのは、相手の言葉を待ち遠しく思っている感覚が、広い琵琶湖の沖の描写によって強調されていることだと思う。全然来ないじゃん! 来てよ! という詠者の願いの強さを思い知らされる。

 けれど、序詞からは同時に、理不尽さというか幼さというか、詠者はどこかで自分のこの要求が過大なものだとわかっているような気配も感じられませんか? 琵琶湖の沖の真ん中で碇をおろして「なんで来てくれないの!?」って、そりゃあ来ないよと思ってしまうというか。

 いやもちろん序詞は無心と解釈するのが一般的な読みだとは理解しています。その上で、もしこの言葉が選ばれた理由を考えるとしたら、になってしまうのですが……。それでも、歌を詠むという行為、ひいては言語化という営み自体が自分を客観視する契機にはなると思うのです。つまりですね、この序詞によってまず考えられる解釈は、無茶な要求をしていること、そしてその無茶な要求を、詠者はわかってしている可能性もあるのではないか、ということです。恋愛の甘さだったりどうしようもなさだったりを、この序詞から汲むことができるかもしれない。

 また大袈裟な表現自体が、ロマンチックな、当事者がその瞬間に聞く以外は身の毛もよだつようなものだったりする睦言の性質とも重なる気がします。こうしてみると、単に閉じ籠って返信を待っている内向的なはずの内容が、対照的な広い景色を序詞に読み込むことで、実に立体的で感情の解釈が豊かな歌に仕立てられている。

 全部わかっていて楽しんでいるアダルトな恋歌としても、初々しく舞い上がって言葉が大きくなったフレッシュな恋歌としても、「近江の海沖漕ぐ船に碇おろし」という序詞が竜骨となって歌を底から支えているおかげで、どんな人が読んでもたのしい歌になっているのではないでしょうか。

*1:参考:「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫