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わたいしの時もある

重ならない自他の今

今もかも大城の山にほととぎす
なきとよむらむ我なけれども
(万葉/巻八/1474/夏の雑歌/大伴坂上郎女、筑紫の大城の山を偲ぶ歌一首)

 言葉の上では感情をあまりあらわにしない歌だけれど、なぜだか、さびしさを感じられる歌で引き込まれました。

 訳すなら「今もかも大城の山にほととぎす」今だって大城の山にほととぎすが「なきとよむらむ我なけれども」鳴き声を響かせているだろう。私はそこにはいないけど*1

 今この瞬間にも遠い筑紫の大城の山でほととぎすが鳴いているだろうと想像すること。自分はそこにいないこと。この2つを描くだけで、ほととぎすの声が聞きたかったことや、自分がいないところで声を響かせているほととぎすへの親しげな恨み言、私が聞いていなくても元気でやっているよな?というほととぎすへの信頼や願いなど、いろんな感情が我がことのように惹起されました。感情を言葉にしないこのうたは、読んで抱かされる感情のどれもを肯定せず、しかしそういうふうに思っていたかもねと部分的には認めてくれそうな懐の深さもある気がします。

 「らむ」現在推量(〜しているだろう)というのは、想像の景には居合わせられなかった主体に否応なしにフォーカスする力があると思い知らされました。例えば「今ごろみんな、遊園地で楽しく遊んでるんだろうな」というフレーズは、話者の情報が何もないにもかかわらず、遊園地に行きたかったのに行けなくて、そしてうらやましいと思っている人が言ったのだろうと想像してしまいませんか? こういう発想って万葉集の時代からしたらミームなんでしょうか。こういうところからさびしさを感じたのだと思います。

 また、さびしさとは別に、あったかもしれない可能性と自己を明確に切り離して認識していないと現在推量の「らむ」は使えないのかなとも思いました。「らむ」は、可能性の喪失を少なくとも言葉の上では認めていて、その点では、なかなか大人な表現と言えるかもしれません。この歌にひきづられているだけかもしれませんが、過去推量や未来推量よりも、現在推量の「らむ」はちょっぴり冷静な感じがしてきました。

 現在推量による自己の相対化は、他の現在を想像することで、今自分が何をしているか、これから何をするか考えることを促してくる感じもして、そう考えると、さびしさだけじゃなくて鼓舞というか、今の自分の背中を少しだけ押すような効果もあるかもしれません。このブログを書いている今、多くの人は寝ているだろう……明日はもうちょっと早い時間に書いて、早めに眠れるようにしたいです。なるべく!

*1:参考:「萬葉集(2)」日本古典文学全集