難波潟潮干に立ちて見渡せば
淡路の島に鶴(たづ)渡る見ゆ
(万葉/巻七/1160/摂津にして作る)
「難波潟潮干に立ちて見渡せば」難波潟の干潟で立って見渡すと「淡路の島に鶴(たづ)渡る見ゆ」淡路島の方へ鶴が渡っていくのが見える*1。
淡白な歌で、それはそのまま眼前の景色の広さ、情報の少なさと響きあっているのかもしれない*2。あと、やっぱり干潟がいい。
干潟というのは、いかにも鶴が来て小魚を食べたりしてそうだし、海の向こう(淡路島)を望む陸地の端っこでもある。その波際の臨界点からの視座は、陸地に立つ詠者と空を飛ぶ鶴の対比も際立たせる。陸路は断絶しているけれど、空の道は鶴が飛んでゆく。
構図もいい。淡路島へゆく鶴を詠者が見送るとき、自分が家を出るときに見送ってくれただれかのことを思い出すかもしれない。境目に立つということは、自分が何を見ているかというのと同時に、自分が何に見られているかも明らかにするのではないか。
わたしは……デジタル時計の日付が変わる境目で、昨日の自分から「早く寝るんじゃなかったの?」と言いたげな目で睨まれてる気がします。