わたいりカウンター

わたいしの時もある

葉を落とした冬の木肌

神な月時雨許を身にそへて
知らぬ山地に入ぞかなしき
(後撰/冬/453/山に入るとて/増基法師)

 時雨(しぐれ)は晩秋から冬にかけて断続的に降る通り雨のこと。晩秋に降る時雨は、紅葉を一層紅くさせ、冬になって降る時雨はその紅葉を散らせてしまうものとして、時雨はしばしば歌に詠まれている。

 冒頭歌での時雨は、冷たい雨として描かれているように見える。訳すなら「神な月時雨許(ばかり)を身にそへて」神奈月(10月)の時雨だけを身につけて「知らぬ山地(やまぢ)に入(いる)ぞかなしき」知らない山路に入るのは本当に悲しい、というようになるか*1

 詠者は法師であることから、知らぬ山道へ入っていくのは、俗世を捨てている描写でもある。けれど、出家して俗世のしがらみや感情から離れられているかは「かなしき」からわかる。まだ感情が残っているのだ。出家したはずなのに悲しい、というギャップにこの歌の魅力がある。

 出家をして、冷たい雨に打たれながらも山路を歩く法師は、真面目に世を捨てて宗教に励んでいる法師だと思う。そんな増基法師が思わず「かなしき」と詠んでしまったのはどうしてだろう。……この時雨は、冷たくて、そして紅葉を散らす時雨だからなのでは?

 増基はつめたい時雨で葉をすっかり散らした木々を、山路を歩く間ずっと見ていたのではないか。人の心を動かすうつくしい紅葉を落とす時雨に降られているのだから、自分の雑念も落ちてくれはしないかと、濡れた木肌を眺めて思ったのではないか。そして自分の心をあらためて確かめると、かなしいと思っていることに気づいてしまった。もしそうなら、誰が増基法師を責められるだろうか。

*1:参考:「後撰和歌集」新日本古典文学大系