朝びらき漕ぎ出て来れば武庫の浦の
潮干の潟に鶴が声すも
(万葉集/巻十五/3595)
朝、船を漕ぎ出して来てみると、武庫の浦の干潟に鶴の声がするなぁ、という歌。
元々潮が満ちていたところが一面干潟になっている、その広い視野いっぱいに鶴の声が響いているという歌で、朝というのも相まってなんとも解放感のある歌に思う。武庫の浦は、現在の兵庫県の海のこと。
今日あたりで現在まで食い扶持を繋いでもらっていた勤め先での労働が終了しているはずなので、こう、パーっといきましょうではないが、景気の良い歌を紹介して終わろうと思ったのだけど、これ自分の悪いとこ出てない?こういう油断から人間はだめになっていくんじゃないの?と急に不安になって来た。
おもしろき野をばな焼きそ古草に
新草混じり生ひ生ふるがに
(万葉集/巻十四/3452)
(いろんな植物が生えてて)おもしろい野原をどうか焼かないでくれ。古草に新しい草が混じって生えていても成長するように、という歌。
強調の「をば」と、「〜するな」と禁止の意味の「な〜そ」の連続が一目わかりづらいけれど、思い出すと懐かしい古語イディオムだ。
昔の人のおもしれー野原の基準がわからないけれど、見慣れた植物の中に埋もれて新しい草木があるのを見逃さないで!という歌であり、いろんな植物がある野原も面白いと感じたのではないかと思う。
振り返って見ると私は、昔の人の実感を大事にこそすれ、昨日の自分の感情をちょっと軽視していたかもしれない。遠く昔の歌を今の自分に照らし合わせることはよくするのに、特に新しい生活を控えた汽水域みたいな時期に、今まで自分の生活を蔑ろにしてしまうことがままあるような人間である気がしてきた。
今は潮の引いて開けた浜の鶴に耳を奪われず、見慣れた気になっている古草の茂る野原を見つめ直してみたい。