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わたいしの時もある

ほのかでもスポットライト

鶉伏す刈田のひつぢおひ出でて
 ほのかに照らす三日月の影
 (山家集/中雑/945)

 
 「ひつぢ」とは刈ったあとの株にまた生えてくる稲のこと。それが「おひ出でて」生えてきているのを、やさしい光量の三日月が照らす、という歌*1。ほのかであっても月に照らされている「ひつぢ」が主役の歌でしょう。
  「鶉(うずら)伏す」ではなく「鶉なく」と伝わる本もあるみたいですが、個人的には「伏す」の方が似合うと思っています。理由はふたつです。
 薄あかりの夜、稲の切り株からひょっこり顔を出した「ひつぢ」だけが目立っている。この「ひつぢ」は小さな芽吹きではありますが、一度刈られた株であることを考えると、喪失からの再出発とも言えるわけです。そんな地味ながら大きな一歩に気づけたのは、月明かりも三日月で暗くて地味で、うずらも夜で静かに地面にいるだけ、つまり周りの景色がもっと地味だったから気づけたのではないかと思うからです。
 もうひとつは、三日月とのモチーフ類似が「伏す」の方が綺麗だから。今まさに成長を始めた「ひつぢ」に対して、三日月は欠けたまま鶉は伏せたまま。そういう対比では決してないでしょう。「ひつぢ」が芽吹いたのを皮切りに、鶉だって朝には飛び立つだろうし、三日月だって満ちて光を増していく。実際に景色の中でうずらが鳴いていた可能性もあるから一概には言えませんが、鶉と三日月を「ひつぢ」のバックダンサーのように考えると「伏す」が綺麗だと思うのです。
 小さな再生の姿を目の当たりにした西行の心がどう動いて、この歌を作るに至ったのでしょう。私がこの歌を読んで元気をもらったように、西行もそうだったのでしょうか。