わたいりカウンター

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春くれば木がくれおほき夕月夜
おぼつかなしも花かげにして
(後撰/春中/62/題しらず/よみ人も)

 訳すなら「春くれば木がくれおほき夕月夜」春になると木に隠れてしまうことが多い夕方の月は「おぼつかなしも花かげにして」(ただでさえ)よく見えないのに花の影になって(さらに見えにくくなってしまった)、という感じか*1

 春の歌の大目標は、春を描くことだと思う。でも、何も直接描かなくてもいいのだな、と冒頭歌を読んで思わされた。夕方の月がおぼつかない理由として、茂っている木や花を描くことで、読者に春の気配を間接的に想像させるところがおもしろい。

 詠者はどんな景色を見てこの歌を詠んだだろう。月が昇っているし夕方も終わり頃で、木も茂っていてさらに花の影だから、けっこう暗い景色を見ていたのではないか。もしそうなら、茂った木や花の様子はよく見えなくて、詠者もそのぼんやりしたシルエットから春の景色を想像したのではないか。

 読者と詠者の体験してる景色が近くて「夕方の月、全然見えないっすね」「ですね。木も茂ってるし花っぽいシルエットもあるし、春ってことなんすかね」「あー、そうすね、そうかも」みたいな、お互いにお互いの方を見ないローテンションな会話をした気になってしまった。花火を見ようと高い場所に来てみたものの、ちょうどマンションかなんかで見えなくて発生したなんともいえない時間、あのあてをなくしてただぬるくなっていくだけのビールみたいな哀愁ある虚無の時間を一緒に過ごしたら、誰とでも仲良くなれそうな気もするけれど、あいにくどこの誰とも知れないので仲良くなりようもない。……もしかしたら、詠者もこの景色を見たときひとりだったのかもしれない。