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声を出す理由

五月雨のそらもとどろに郭公
なにをうしとかよただなくらん
(古今/夏/つらゆき/159)
 
 最近ツイッターがギクシャクしている。人間関係がとかではなく、運営がこのまま続いていくのかあやしい雰囲気なのだ。今日なんか知り合いが不透明な理由でアカウントを凍結されていた。

 歌は「五月雨のそらもとどろに郭公」五月雨のそらにも響くほどにほととぎすは「なにをうしとかよただなくらん」何がつらくてか夜にただずっと鳴いているのだろう*1という感じ。五月雨の降る空は決して静かではなく、ざあざあと雨音で満ちているだろうに、それでも聞こえる「とどろ」いているほととぎすの声というのはどれだけうるさいのだろう。それだけ大きな声で夜通し鳴いているほととぎすは、いったい何がつらいのだろう、と貫之がほととぎすに心を寄せている歌だ。

 五月雨の音よりも大きな声でなくほととぎす。その声を大きくさせている、ほととぎすのつらさは知覚できるものではないだろう。「五月雨のそら」よりもほととぎすの「憂し」つらさの方が大きいような気配がある*2

 つらい歌のようでいて、大声を出してもいいかも思う瞬間は別に他にもあるな気づく。周りに人がいなくて、他に大きな音がしている時、たとえばゲリラ豪雨の中を自転車で帰らないといけない時なんかは、幅の広い交通量の多い道路の近くで、興奮に任せて歌を歌ったりした記憶がある。

 ツイッターがきな臭い雰囲気だけど、それでもやめない理由は、ひとつにはやっぱり発言の敷居の低さなのかも知れない。みんな大声で喋っているわけじゃないけれど、ひそひそとみんでが喋っていたらやっぱりそれなりの大きな音だし、その中でなら他愛ないような独り言も声に出してみようと思うのだ。 

*1:参考:「古今和歌集日本古典文学大系

*2:百人一首の三番が寂しいという感情に収束していく、いわばしっとりとした日常系漫画の様相を呈しているとしたら、この歌はさながらトーナメント編絶好調のバトル漫画という感じがする。