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わたいしの時もある

あたたかくてさびしくて

大き海に島もあらなくに海原の
たゆたう波に立てる白雲

万葉集/巻七/雑歌/雲を詠める/1089)

 そっけないような、のんびりとしているような、少しだけ寂しいような気配もあるふしぎな歌で、思わず読み返してしまった。詠者の感情がなかなか見えてこないうたではあるけれど、良いなと思うところを挙げながらちょっと考えてみたい。

 「大き海に島もあらなくに」がまず良い。見渡す限りの海は、島さえ浮かんでいないという。広い海、という情報だけでものんびりできてしまうのに、島影もないとなると、もういよいよ目の前には海しかない。描き出された雄大で単調な景色に、のどかを通り越して ぽかん としてしまった。

 「海原のたゆたう波に立てる白雲」ここも良い。目の前は海しかないのだから、波の様子に目がいく。その上に、白い雲が浮かんでいるというのである。これを書いているのは深夜1時過ぎだけれど、こんな歌を読んだら、堤防に腰掛けて海を眺めながら日向ぼっこしているような気持ちになる。するとどうなるか。端的に言って、今、寝そうです。

 この歌は、海にも波にも白雲にも明確な感想がついていないから、どの要素が主役なのかわかりづらい。それでも一応この歌は「雲を詠める」という前提があるから、雲のことを考えているのではないかと思う。

 強いて詠者の意図が拾えそうなところは、やはり否定の含まれた「島もあらなくに」島もないのに、白雲が立っているというところだろう。

 人は、同じくらいの大きさで同じような言語を使う生物と一緒に存在すると寂しさが紛れるらしい。では白雲は? 白雲もまた同じくらいの大きさの島もなく、ひとり(ひとつ?)で海原を眺めている。詠者は、白雲に感情移入していたのかもしれない。同じ大海原を目の前にして、自分の存在がひどくちっぽけなもののように思わされた同志として。