わたいりカウンター

わたいしの時もある

愛される曖昧さは未だない日々

通るべく雨はな降りそ我妹子が
形見の衣我下に着(け)り

(万葉/巻七/雑歌/雨を詠む/1091)

 なんか気になる歌っていうのは、共感できるか自分にないものを持っているか、どっちかのような気がしています。今回もそのどちらかでした。

 「通るべく雨はな降りそ我妹子が」(濡れて雨が服を)浸透してしまうほど雨よ降らないでくれ。私の妻が「形見の衣我下(われした)に着(け)り」(旅立ちの別れで)形見にとくれた肌着を下に着ているよ、という感じ*1

 「通るべく」が初読と印象がガラリと変わった初句でして、当初は道が通れるくらいに「雨はな降りそ」雨は降ってくれるな、つまりどうせ降るならもっと降ってくれ、そしたら旅も延期くらいにはなるだろうからと、体育祭がいやだから雨がたくさん降ってほしい、みたいなニュアンスかと思っていました。しかし参考にした全集の原文のところには「可融」(は返り点です。念のため)とあり、「融」の字と聞いて解釈を改めることになります。全集の「通るほど」の訳「濡れとおるほど」のニュアンスを下敷きに、形見の肌着が水を含んで上着や地肌とくっついてしまうからいやなのだったのかなという印象に落ち着きました。

 「雨はな降りそ」もおもしろいんですよね……「な〜そ」は「〜するな」と弱い禁止を表すのですが、人語を解さないであろう雨に「降るなよ」って言ってるの、気持ちはわかるけど通じるか?っていう。やっぱり昔の、それも旅をするような人にとって、自然はアニミズムの対象であり、とても身近な存在だったということなのかなと思いました。

 また「雨はな降りそ」の別の解釈も思い浮かびました。それは旅仲間に自己開示をするための歌だった、というものです。……まあ単純に読むとただの惚気ですが、「で、あなたのとこは恋人とはどんなかんじ?」みたいな話題をふっているのかも。

 さて、アニミズムにせよ、自己開示にせよ、この歌には自分の意識と周囲との境目を曖昧にして、相手に投げかける意図がある、というのは間違いないと思うのです。その曖昧さは、これから濡れてピッタリくっついてしまうかもしれない上着と肌着と地肌の様子にも当てはまる。けれどそうなるのは詠者は嫌なのですね。

 歌っていることは結構わがままだと思うのですが、個人的にはそんなに嫌じゃない甘え方で詠者は後輩力高そうだなって思います。それに、心と肌着の曖昧さの対比構造が歌としてきれいだなと思うので、蓋を開けてみるとなんか悔しいです。悔しい。わたしだって上手に社会で生きていきたし、いい歌詠みたいともさ!*2

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

*2:それはそれとして、こんなことを詠者にもし伝えられたとしても「自己実現を死者に仮託するなよ、今生きてるんだからいいじゃん。がんばりな」って言われそう……名も知らぬ詠者さん、もしやあなた後輩にも好かれるタイプですね?