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わたいしの時もある

編者は並のやつじゃあない

宇治川は淀瀬なからし網代
舟呼ばう声をちこち聞こゆ
(万葉/巻七/山背(やましろ)にして作る/1135)

 この歌に限らないのですが、詠まれた景や内容を考えてるうちに急に、以前もこの歌を紹介したのでは?と不安になって書くのを止めることがあります。そんな時は歌番号で検索すると一目瞭然です。今のところは全部杞憂で、安心してまたその歌について書きはじめています。

 歌は「宇治川は淀瀬なからし網代人」宇治川は淀んだ(流れのほとんど止まっている)瀬がないらしい。漁師たちが「舟呼ばう声をちこち聞こゆ」舟を呼ぶ声があちこちから聞こえてくる、という感じ*1網代とは、魚が一方向からしかはいれない設置型の漁の道具のことです。

 「淀瀬なからし」淀んだ瀬はない、っていうのが心を掴んできます。だって、じゃあ何があるんだよって気になってしまいません? やっぱり否定って強調表現として優秀というか、求心力があるもんですね。

 その「淀瀬なからし」が生んだ読者の期待を十分に満たしてくれるのは「舟呼ばふ声」であり「をちこち」でしょう。特に「をちこち」*2が効いていて、いろんなところから漁師たちの声が聞こえる宇治川の活気を描いています。「舟呼ばふ声」だけなら、漁の規模が想像できず淀瀬の可能性を拭えませんが、「をちこち聞こゆ」あちこちから聞こえる、とまで言われると認めざるをえないですね。

 ところでこの歌、実際の景色を見ながら詠者に耳打ちされるのと、こうして文字に起こされた形で読むのとどっちの方が楽しい短歌体験なのでしょう。 わたしは、こうして文字で読めてよかったと思っています。実際に漁師たちの声やら船やらで賑やかな川の様子が見えていたら、この歌を聞いても「ああそうだね」と薄いリアクションしか返せなさそうだからです。してみると否定表現というのは、こと修辞としては重宝されても、実際の景色を前にはただ冗長なだけの言い回しに成り下がってしまうのかもしれません。漢詩集など和歌以外のアンソロジーの先例があったとはいえ、編者のテキスト情報としての魅力を嗅ぎ分ける感覚に敬意を払いたいです。

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

*2:これを書いている2023/04/23現在、この「をちこち」という単語のことをとてもかわいいなって思っています。今言語化できる範囲で説明するなら、あっちこっち、と注意が散漫になって浮き足立っている感じが、無邪気な自己開示として見ている方を安心させるからかもしれません。