散りかかる紅葉流れぬ大井河
いづれゐせき(堰)の水のしがらみ
(定家八代抄/巻六/冬/485/大納言経信)
最近は四月の暮れだというのにどうも寒くて、冬の歌を読んでしまった。夏にアツアツなものを食べれば涼しくなるように、冬にヒエヒエのものを食べたらあたたかくなるはずで*1、それなら寒い時期に冬の歌を読めばあたたかくなるはずだった。ところが冬の歌は一読すると普通にさびしくて身に染みた。
「散りかかる紅葉流れぬ大井河」散りかけの紅葉は(どんどん川に流れてくるはずなのに)流れない大井川だなあ「いづれゐせき(堰)の水のしがらみ」どの堰が水を止める柵になっているのだろうか、という感じ*2。とぼけた詠みぶりで、単にうつくしい紅葉が散った後川に流れてくるのを探している、と解釈することもできるけれど、繰り返し読んでいるうちに、これは喪失を少しずつ味わっている歌のように思えてきた。
冬になって、かつて見頃を迎えていた深紅の錦のような紅葉の色彩はなりを潜め、だんだん暗く、枯れているような色になる。それでも、落ち葉が川に流れていたら綺麗だろうし慰めにもなったはずだった。けれど。どうだろう、木にももう僅かにしか葉は残っておらず、川にだって紅葉の気配が全然ないのである。
どこで堰き止められて水が(紅葉が)停滞しているのか、不思議がっているというよりかは、事実としてもう紅葉は流れ切ってしまって、すっかり冬になってしまっているということを受け入れられない、気付く前の喪失感を鮮やかに描き出してはいると解釈するのは、深読みが過ぎるだろうか。
喪失を気軽に人と共有するのは難しい。けれど歌は感情の待ち合わせ場所になってくれるときがあるのかもしれない*3。冬の歌だから、とかそう次元ではなく、この歌って実はあたたかいとは言わないまでも、やさしい歌ではあるまいか。