わたいりカウンター

わたいしの時もある

もとの心ばへ

 

 ここで書く文章で紹介するのを、和歌だけじゃなくて小説とか音楽とかにも範囲を広げたり、そもそもただの日記だけの回も作ったりと、筆者と対象の距離や文章感の統一感(連続性?)をちょっと手放そうかなと(元からあったかはわからないけれど、わたしなりには意識していることはありました)。ここで文章を書き始めたときは、結構並々ならぬ熱意を持って書いていた*1のですが、しばらくは、内容や頻度*2をそこまで気にせず、気軽に書こうと思っています(その中で気重に熱狂的に書く回もあるかと思います)。

 最近の体験消費的な傾向、或いは作者のツイッターなんかを見たくなる欲求が普遍的なものに近づいていることについて、わたしは態度を決めかねていまして。というのも、ここによく書いている文章なんかは、エッセイ的側面と和歌紹介的側面のふたつを意図的に混ぜようとしていて、それをうまくやるには、歌へのしっかりした理解や、繊細な手つき、それに運なんかも必要で、上手に着地できなかった回もあれば、上手に着地出来すぎてて良くない回なんかもあるよなって思っていて。それらって、紹介がメインである種の体験消費を従えた文章のようでいて、ただわたしのために和歌を消費してしまっている回になっちゃってる気もするんですよね。可能なら自分の話は必要最低限しかしない(けどその話はどれも出演者を際立たせるのに有効な)司会者みたいになりたい。

 もちろん、構造的狙いとは別に、わたしの心の動きとして致し方ない部分があって、それは相手(歌)が自己開示してくれた分だけこっちも自分のことをしゃべってバランス取らないと、相手を突っぱねることにならないか、というコミュニケーション不全をすこし過敏に恐れているからというのもあります。

 それにポジティブな動機として、現代にありふれた構図や感情の動きの裏に、そっと和歌を忍ばせてみたいとか、1000年くらい過去の感情まで一瞬で滑り落ちれるワームホールの入口を作っときたいというような、(夢見がちがすぎるかもしれないけれど)そういう気持ちもあったりします。もしここの文章が和歌の感情にふんわりとしたタグ付けをしつつ、わたし自身が現代人有効サンプルの一例*3になれていたら少しは価値があるのかな。

 

*1:そういうテンション感の自分へは気恥ずかしさと敬意のどちらもがあります

*2:「心疾く歌をよめる人は、中々に久しく思へば悪しう詠まるゝなり。心遅く詠み出す人は速やかに詠まむとするも叶はず。ただ、もとの心ばへに従ひて詠み出だすべきなり。」(俊頼髄脳)

最近「俊頼髄脳全注釈」を買いまして、目次を見ていたら「詠歌の遅速」という項目があって引き寄せられてしまいました。すぐ歌を作れる人は悩みすぎると良くないし、時間をかけて歌を作る人はあんまり速く作ろうとしないほうがいい、というような内容が書かれています。「もとの心ばへ」を全注釈では「元来その人に備わっている器量」と訳していて(すてきな訳すぎる……)、自分に引き寄せて「お前のペースでいけ」と俊頼に言ってもらったような気になりました。

*3:読み返してみて、自分が現代人の代表的サンプルになれるかどうか、とても疑問です。でもだからこそ、気軽に書いたらいいんじゃないか?