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わたいしの時もある

かくてひとりの旅終わる

忘れじの人だにとはぬ山ぢかな
櫻は雪に降りかはれども
(新古今/雑中/1665/摂政太政大臣(藤原良経))

 今日はおおきい魚を見にいった。日曜で人出が多くて魚も興奮していたのか、単に最近は暖くてなのか、とても元気によく泳いでいて癒されたり元気をもらったりした。泳いだ先が水槽の隅で行き場をなくしたかに見えても、頭とヒレを器用に動かし華麗にUターンする様子には見入ってしまった。

 帰り道で自転車に乗っていると歩道橋があり、階段の脇のスロープを押して上がっていた。階段と階段をつなぐ途中の折り返しの踊り場では、内側のスロープを使っていたため曲がり切れるか不安だったが、意外とあっさり曲がり切れてホッとしたし、反対側で下っている間にさっき見たおおきな魚のUターンを思い出してちょっと愉快だった。

 冒頭歌を訳すなら「忘れじの人だにとはぬ山ぢかな」忘れないよって思ってくれていた人さえも訪ねてくれないような山道だよな「櫻は雪に降りかはれども」桜は雪に降り代わっているけれど、という感じ*1

 「忘れじの人だにとはぬ」と二重否定を用いられ描写される状況や、「忘れじ」「とはぬ山ぢ」の「じ・ぢ」の濁音の繰り返しが、来客を諦めた雪のように真っ白で清らかな心持ちというよりも、不満や寂しさも混じり合う複雑なせつなさを思わせる歌だ。出世に恵まれなかった人かと詠者を見れば時の権力者太政大臣であり、歌われる感情とのギャップもあって気になってしまった。

 大系では違う歌を本歌としているけれど、ごく個人的には*2万葉十一2315人麿or三方沙彌の
あしひきの山路も知らず白橿(しらかし)の
枝もとををに雪の降れれば
を思い浮かてしまう。このように雪によって道がわからなくなってしまう、という構図は万葉の頃から歌われていたのだが、すると下の句「櫻は雪に降りかはれども」の逆接「ども」がちょっとおかしく見える。桜が雪に代わってしまったけど、人が訪ねてくれないというのは変だ。むしろ雪のせいじゃないのか?

 この逆説「ども」は雪が桜と同様に見ていてうれしいものだという詠者の思いを反映しているととるべきかもしれない。人が来てくれないけど、雪はきれいなのだ。まず景色をよろこぶ気持ちがあり、その後に、でも人が来ないという寂しさがある。ところでこの寂しさ、雪を太政大臣、桜を新人官僚と捉え直すことでさらに際立つと考えるのはいき過ぎだろうか。

 太政大臣になったこと自体は喜ぶべきことだろう。今でいう官房長官のようなものだと思うし、すごいことだ。でもその昇進によって新人官僚や、かつて同じ桜を見て入庁した同期との縁が遠くなってしまったということもあると思うのだ。

 暦の上では新春だけど梅の枝に花のように散っているのは雪である、そんな歌の類型が勅撰集でも数多く登場する。冬から見て、春は隣の地続きの季節なのだ。でも春から見て冬はどうだろう。夏秋を越えなくては辿り着けない、最も遠い季節ではあるまいか。歌は次の春ではなく、桜が雪に降り代わってしまった、つまり冬から昔の春を思い返している。この時間的距離が歌の寂しさを深めている。そして同時に、昇進を続けて最後の季節、どん詰まり、官僚としての最高権力でもある太政大臣としての寂しさも滲んでいるような歌にも思えた。

 最近、二十一代集データベースが使えなくなってしまったのもあり、新大系八代集総索引」を購入した*3。Uターンが印象的な日だったし各句検索で「かへす」とか「ふりかへる」とかないかなと調べていると、「かへす」の方はたくさんあり、逆に「ふりかへる」は一首もなかった。代わりに一首だけあったのが「ふりかはる」つまり冒頭歌だった。

 だからか、詮のない想像をしてしまった。官僚として一番上までたどり着いて寂しそうな歌を歌っている太政大臣もとい良経と、お忍びで、日曜日の人出の中で水槽の前まで一緒に行けたら、おおきな魚が水槽の端から華麗にUターンするのを目撃したら、良経は無邪気によろこんでくれるだろうか。それとも、いっそうかなしい顔をさせてしまうだろうか。

 

*1:参考:「新古今和歌集日本古典文学大系

*2:ここでいう個人的とは単に「山路」が雪によってわからなくなる歌というのもあれど、この万葉歌2315番が学部生の時初めて調査対象として扱った歌だから、という本当に個人的な事情があります……

*3:古本屋で500円だった。本当に使い勝手が良くて捗っています。ありがとうございます!