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わがやどのきくのかきねにをくしもの
きへかえりてぞこひしかりける
(古今/恋二/564/(無記名))

 以前紹介した拾遺1021雪をうすみ垣根に摘める唐なづな〜では触れなかったのだけれど、改めて考えてみると「かきね」が登場する恋うたであるということが重要な気がしている。というのも「垣根」のもつ境界性は、成就するかしないかの瀬戸際である「恋」を歌うときにかなり効果的、というとなんだか他人事のようでいやだけれど、なんでしょう、不安定な期待と絶望を行ったり来たりする心にとって、感情を仮託できる、ありがたい存在として「垣根」という言葉があったのではないか、という気がしていまして。八代集中で「かきね」という言葉の詠まれた例は50首いかないくらいみたいなので、折に触れて見ていこうと思って、今日は最初に出てきた古今集の歌を読んでいました。

 訳すなら「わがやどのきくのかきねにをくしもの」我が宿の菊を囲っている垣根に置いている霜のように「きへかえりてぞこひしかりける」すっかり消えてしまうほど恋しく思っているよ、という感じ*1。上の句は「きへ(消へ)」を導く枕詞ですが、かなり意味のある構図に見えます。だって、菊の近くで凍ったことで存在できている霜が、消えて(とけて)しまったら菊の近くにはいられない、というのは結構恋歌していませんか?

 つづく「きへかへる」の「かへる」は現代語で言うところの呆れ返るとか静まり返るとかの「かへる」で直前の語の程度が進んでいること、ここでは「きへ」が本当にすっかり消えてしまっているというのを表しています。しかし「きへかへる」すっかり消えてしまうように恋をしている、とはどういう状況なのでしょう。

 単に消え入るように頼りなく思っている恋と解釈するのが王道と思いますが、他のことが考えられなくなってしまう、頭の中で考えていた他のことが消えてしまってあなたのことしか考えられない、みたいな含意も取れなくはなさそうです。

 岡目八目といいますか、霜と菊の構図に自らの恋を重ねたら、かなり客観的に自分の恋も見つめ直せそうなものですが、歌では、それでもすっかり消えてしまうほど恋しくおもってしまう。そんなどうしようもない自己開示があるところが、この歌の隙であり魅力ではないでしょうか。