わたいりカウンター

わたいしの時もある

回顧は今際にツケ

 旅先で、電車の中で反対側の長椅子の背にある窓に流れる景色をぼうっと眺めていた。筋向かいに座る男性は頭を自分の膝のあたりまで倒して器用に眠っていて、のどかだなあと思ったのだが、よくみると彼の足元、座席の下にちょうど隠れるようにしてスマホが落ちていた。わざわざ寝ている他人を起こしてまで落とし物を指摘したくなくて、元々落ちていた彼ではない人のスマホなのでは? とか考えもしたが、まあ、旅の恥はかきすて、という言葉もあったことだしと、自分の荷物を座席に置いて立ち上がり歩み寄って、肩を叩いて怪訝そうにわたしの方を見る彼に座席の下を手のひらで指して確認してもらったところ、軽くお礼を言ってもらった。スマホは彼のだった。声をかけてよかった。よかったのだが。

 これは内面的な話になるのだけれど、旅先でなければこのようなことはしなかったかもしれないと思ったのだ。時に、よく行く定食屋さんに認知されたらもういきたくない、という言説を耳にしたことはあるでしょうか。わたしには結構わかる感覚で、今回の旅先だからできた気遣いも、そういった感覚、つまり相手に継続的に認知されないことで可能または不可能になる事例なのかなと。そして、この継続的に認知されたくない、ということって、めちゃめちゃ人付き合いが苦手であるということの自己開示になってるのかもしれないと思ったのである。……うわあ。

 いやいやと、皆さんもお思いになったことかもしれません。だってですよ、曲がりなりにも200日以上はここで文章を書いてるようなやつがだ、なーにが継続的に認知されたくないだよと、そう思ったかもしれません。ですがね、ちょっとだけ、それとは話が違うのかもな、と思っていてですね。

 たまにしか会わない人に、ある一面を印象付けてしまうと、そこには存在しない相手にとっての自分が一人歩きしすぎるという状況が起きてしまうかもしれないじゃないですか。たぶん、それが居心地が悪いのだろう、と思いました。たまに会ったり気軽にメッセージをやり取りする仲だったら、ある程度は修正できる。でも、たまたま電車に居合わせた場合、そうはいかないじゃないかと思っていて。よくつかう交通機関だったりしたら尚更。だから、旅先なら気軽に誰かに気を遣えるということなのだと思います。

 でも、実際自分が困った状況になっていたら、たとえば居眠りしている間にスマホを座席の下に落としてしまっているのに気づかなかったら、誰でもいいから気づいた人がいたなら教えてくれよ、と思うでしょう。身勝手でしょうか。もちろん落とすなよって話ではあるけれど、教えて欲しいと思うことは別に傲慢でも強欲でもないような気がします。大なり小なりいろんな人の助けを借りて生きてきてしまったし、気づいて気軽に気を遣えるシーンがあったら、別に旅先だろうが旅先じゃなかろうが、声をかけられるようにしたいな……と。だってこの話、相手に自分の思った通りの自分像を描いてもらえないから、ちょっとしたことでなくなるはずの誰かの不幸に見て見ぬふりをしていたという自己開示になってしまったんですよ? なんだか悲しくなってきた……。*1

*1:これは自己弁護的な要素を含んだ言い訳かもしれないですが、気づいた人が全部やるシステムの破綻なんて火を見るよりも明らかなわけで、そもそも人間が社会的な生き物なわけで、だから自分のできる範囲で無理せずやったらいいとも思っています。お互い、お互い? なんとかやっていけたらそれで