唐錦 枝に一むら残れるは
秋の形見をたたぬ(絶たぬ)なりけり
(拾遺/冬/220/僧正遍昭/散り残りたる紅葉を見侍りて)
髪を、切りました。かれこれ二年くらい必要がなかったので伸ばしていたのですが、髪が伸びていない最近の証明写真が必要だったので切りました。帰り道には髪ゴムは必要なくなって、所在なさげに左手首に佇んでいた、セブンイレブンで買った茶色い髪ゴムのことがちょっと心配になりました。
行き場のない喪失感を求めて冬歌を読んでいたところ冒頭歌を見つけました。「唐錦 枝に一むら残れるは」唐錦(のような紅葉が)枝にひとむら残っているのは「秋の形見をたたぬ(絶たぬ)なりけり」秋の形見の品を絶やさないようにということだったよ*1。……確かに残されたものの寂しい歌ではあります。ただ、今のわたしと感情の系統こそ似ていますが、スケールが違いすぎますね。すかすかした襟足には少し寒い春の終わりなんかとかとはレベルの違う、紅葉がちょっとしか枝に残らないような冬の訪れを歌っています。「秋の形見」というくらいですから、歌が詠まれた時期はもうほとんど冬みたいな季節なのでしょう。
また、紅葉の表現についてびっくりしたことがあります。「唐錦」については、紅葉が反物や染め物に例えられるのは割とある表現です。何よりびっくりしたのは「一むら」でした。わたしは群(むら)で解釈していたのですが、もうひとつ意味が重ねっているらしい。新大系脚注によると、むらは「匹」と書いてむらと読むそうで、二反の布を一巻きにした状態の単位を指す言葉だそう。……いかにも「唐錦」と一緒に使うべき単位です。
残っている紅葉を秋の形見と見立てるこれだけではただの秋の景色です。ただ、その構図に「唐錦」や「ひと匹」と反物の意味も重ねていくことで、秋がなんとなく擬人化されていき「形見」ひいては「枝にひとむら残れる」紅葉にフォーカスが絞られている。技術が歌の目的に奉仕している素敵な例でしょう。
……わたしは髪ゴムのことをもう使われないのかもと心配していました。けれど同時に、切ってしまった髪への愛着や、伸ばそうと思っていた自分の抱いていたワクワク感が、なかったことになってしまうようで心がざわざわしていたのかもしれません。
もう周りの紅葉は落ち切っていて、ただ一むらだけ残っている紅葉の小集合。無理を言っているとはわかっちゃいても、紅葉の最後の一むらだけは、冬の寒風に負けず形見として残っていてほしいです。*2*3