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君どう感想

アニメーション映画作品「君たちはどう生きるか」の感想です。既鑑賞者向けです。

 

アニメーションとして好きだったところ

 人力車? から義母が降りるシーン。重心を落として、フッと地面に降りる動作がただただ良かった。緩急の気持ちよさ。後付け的に効果を考えるなら、迎えに来てくれたときと比べて屋敷に着いたあとの着地は、身籠もっているとわかっているから、その着地の前の慎重さにより引き込まれる気がした。

 終盤の飛び石をわたっていくシーン。子供だとかアオサギだとか、全部台無しにしそうな大王だとかのキャラクターが、飛び石をわたっていく動作でなんとなくわかる。それだけでもおもしろいし、石は創造された世界のイメージを伴っていて、各キャラクターがもし創作を享受するときも、結構飛び石をわたっていくニュアンスと近い受け取り方だったりするのではないかとか、胡乱な妄想がはかどった。

 大叔父様が主人公に気づいて見つめるシーン。顔のアップで情報が少ない分、アニメーションの丁寧さに目が行くし、このシーンがあるからこそ、大叔父様のことを監督にみたてる解釈が出てくるのかなと思う。年を重ねた人間の顔の動きのアニメーションを大きなスクリーンで見るの、わたし好きだったんだな。

 

物語として好きだったところ

 最後の扉の前のやりとり。これにつきる。

 やっぱり主人公の母がかっこいいって思わされてしまった。主人公(息子)と、その義母(妹)に、彼らの心が今一番ほしいだろう言葉を送っているのが、そして自分は結末を知っていても現実に戻るのが。……主人公はいわずもがな、義母もけっこうしんどかったと思うんですよ。当時としては、亡くなった姉弟の配偶者と結婚するのがめずらしくなかったのかもしれないけれど、わたしがそういう結婚の仕方をしたら、代わりとして務まるかというのと、代わりとして務まってしまったらそれは、姉弟が帰ってこなくても良いと認めること、姉弟の死を肯定することにもなってしまうのではないかとか、煮詰まってしんどくなってしまうと思う。けれどこの物語では、亡き姉にそのことを肯定してもらえた。それはどんなに心強かっただろうと思う。

 母の聖性がこれでもかと強調されていて、これを単に癖ととらえてしまうこともできるのだろうけれど、でもそれは前半のおそろしい狂気の気配に費やした時間が長かったことの反動でもあると思うし、物語としてのバランスの取り方、物語として独立して存在できるようにするための配慮でもあると思う。自己の発露と物語への奉仕の両立ともとらえられそう。

 

その他こまごまとした所・雑感

 アニメーションで好きだった所、アオサギ周りは全部好きなので割愛しました。

 夏に観たい映画だった。よかった。

 魚捌くところ、そもそも好きだし、映像研8巻で血の話してたの思い出せて、そこもたのしかった。

 演出として、冒頭で主人公が廃屋の塔を見つけて近づいた後で、後ろから自分を探す声に気づいて、気づいた上で無視して廃屋の方へ進むの、これ以上ない心情描写だし、こわさもあってめっちゃよかった。

 特に冒頭から異世界に行くまでの時間が本当におもしろかったし、日本を舞台にしてどこまでファンタジーが書けるのかということへ挑戦する意思みたいなものがあるように思えた。

 魔法の触媒が鞭なの新鮮な驚きがあった。

 大叔父様が積み石を必死に調整して、やっと1日分の世界の安寧が得られるの、創作(アニメーション)って感じだった。あっけらかんと落胆したような主人公の反応も良かった。

 つくるということを語るときの積み石というモチーフは、バランスを取る必要があることとか、妄想だけど三途の川の話とかと親和性もあるしいいなって思ってて、じゃあ読み手から見たらその石はどんなだろうとも思って。個人的には作品を享受するのは飛び石を配してわたっていくような感覚に近いのかもしれないとか思った。単に機能的で画一的な飛び石というよりかは、各飛び石作り手の趣向が凝らされた上で豪奢な物からシンプルな物までいろいろな飛び石があるだろうとは思うし、飛び石の配置は読み手が行うものだろうし、どこへ向って連ねていくのかも読み手が決めると思う。でも飛び石は飛び石でどこに配されたら一番良い飛び石になれるかとか、飛び石が読み手の方向性を変えたりすることもあって、いや、えー、たぶん、作品と読み手の間には双方向的な干渉があるはずです。