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わたいしの時もある

風が秋

秋風は日にけに吹きぬ高円の
野辺の秋萩散らまく惜しも
(万葉/巻十/秋雑歌/花を詠む/2121/(よみ人しらず))

 訳すなら「秋風は日(ひ)にけに吹きぬ高円(たかまと)の」秋風は日毎に強く吹いた 高円の「野辺の秋萩散らまく惜しも」野辺の秋萩が散ってしまうのが惜しい*1

 今日の夕方に公園を歩いていると、盛夏よりは幾分か涼しくなった風が吹いて気持ちよかった。わたしが風に吹かれる前に、風上の草木が揺れる音がしていて、そこから風を知覚するまでのちょっとの間に風に対して期待をしているかもしれないと思った。

 歌は秋風が日に日に強くなっているので、野辺の萩が散ってしまうのを心配している。自分が風に吹かれて、他に吹かれているものを想像しているのは、どうしてだろうか。目の前にない景色を思いやるとは、よほど秋萩が好きなのか。単にいろんなことに気を回せる人間なのか。答えのない問いだけれど、思うに風の吹く音と温度が秋萩を思い起こさせたのではないかと思う。強くなる秋風が秋風だとわかるのは、単に暦の上だけではなくて、それ相応の冷たさと乾きを伴っているからではないか。そうして、ああ、このくらいの風が吹くと秋萩も散ってしまうのだよな、というところまで思考が届くのではないか。

 9月初旬にあっては、秋風をうっとおしく思えるのはまだ先になりそうで、少しだけうらやましい。

*1:参考:「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫