春されば水草の上に置く霜の
消つつもわれは恋ひ渡るかも
(万葉/巻十/春相聞/霜に寄す/(よみ人しらず))
訳すなら、春の訪れに水草の上の霜が消えていくではないが、消え入るように私は恋い焦がれているなあ*1。
春の景物を詠み込んだ恋の歌。上の句「春されば水草(みくさ)の上に置く霜の」までが「消」を導く序詞だ。けれど、ただ「消」と続けるためだけではなく、詠者の恋へ期待している気配も忍ばせている序詞に思える。
歌の核となるのは下の句で「消(け)つつもわれは恋ひ渡るかも」と恋い慕い続ける切なさを詠んでいる。「われは」の「は」を限定の助詞と捉えると相手の方はそうでもないのかもと少し怖い。けれど、この恋がそのまま一方的に恋し続けるものになるとも思えない。それは上の句の景色が今まさに春めく世界を描いているからだ。春が来たら、地上の草木だけではなく水中の水草だって、葉は茂り青々としてくるのではないか。
調べると「水草の花」は夏の季語らしい。春が過ぎて夏が来る頃には、どうにかなっている、あるいはどうにかするつもりの恋を、春が今まさに訪れている景色に重ねて前向きに詠んでいるとしたらすてきだし、とてもかっこいい宣言だ。
詠者はこの歌を、どんな気持ちで振り返るのだろう。