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わたいしの時もある

なぜ船は迂回したか

湯羅の崎潮干にけらし白神の
磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(万葉/巻九/雑/1671/大宝元年辛丑の冬十月、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首(のなかの一首です)/*1

 「にけらし白」の部分が完全に百人一首二番で*2*3思わずじっくり読んでしまった。でも、考えていくうちにどっちかっていうと一番の気配がしてくる。天皇が「幸(いでま)す」御幸している時に誰かが披露した歌のようだ。

 訳すなら、湯羅(ゆら)の崎の潮が引いたのでしょう、白神(しらかみ)の磯の入江の内側を敢えて漕いでいるようです*4、という感じか。歌の感じはなんとなく好きなのだが、干潮だとどうして入江へ船を漕ぐことになるのか、ちょっとよくわからない。

 湯羅の崎では漁業が行われていたらしく、少なくともひとつ前の1670番歌には「朝開き漕ぎ出て我は湯羅の崎釣(つり)する海人(あま)を見て帰り来む」とある。おそらく冒頭歌は船で釣りをして戻った漁師が、波際が干潮で遠くなっているのを見て違う入江に回ったことを歌ってるのだろう。だが、そのまま湯羅の崎に船を泊めずに白神の磯*5の方へ回ったのは、なぜなのだろう。

 想像すると、船を入江に回さないとすると結構大変な労働が待っている気がしてきた。干潮の時に干潟に船を泊めても、結局潮が満ちた時に船を流されないように止めておくための工夫ができないだろう。となると本来の波際まで船を押していかなければならないが、干潟のぬかるみの中で船を押すのは物理的にも大変で、そして何より「冬十月」の海水と気候が冷たすぎるのではないだろうか。だから他の船に乗ったままで、船をきちんと止められる入江の方へ回る必要があったのではないか。

 そしてこの歌が労働の大変さを含意するかもしれないことは、御幸の時の歌であることとも関係するのかもしれないと思った。御幸の目的は民の暮らしの実情、たとえばその大変さを知ることにあったのではと思うのだ。たとえば農業の大変さも歌っている百人一首の一番の作者が、天智天皇であることに意味があるように。

 歌としての面白さは、白神の礒を漕ぐ船から眼前にない景色を想像できるところにあると思う。けれど船が白神の礒へ回り込んだ意味を考えていくうちに、冬に魚を獲る大変さを天皇に伝える意図もこの歌にはあったのかもしれないと思えてきた。叙景と文化ガイドの両方の意味合いを想像すると、新古今並みに情報量の多い歌になるのかもしれない。

*1:全集によると人麻呂歌集にも同様の歌が見られるそうです

*2:ええと、たとえば……有線で流れてきた知らない曲のあるフレーズが、自分の好きな曲のと同じだったりしたら、その知らなかった曲を何度も聞いてみようと思ったりしませんか? 例えが上手くないかもですが、そんな感じです。実際には多分百人一首のよりもこっちの方が古い歌だと思いますが。あ……いや、これは完全に脱線というか日記でしかないのですが、「映像研には手を出すな!」でたまに出てくるデフォルメで口(くち)がカタカナの「フ」のように描かれるシーンがあって好きなのですが、その後それより刊行年が古い「げんしけん」でも出てきて、こっちが本家か、と思ったり、いやこれより前に「フ」の口の表現があるのかもしれないなとか最近思いました。文化を年代順に追えるわけではないけれど、自分の最初に見たものが自分の中では古い地層に格納されるから、言葉を丁寧に選ばないといけないかもしれないとかも最近思います。万葉集はかなり古いと思っていい歌集ではありますが、小説や漫画などは私的オタク史と公的文化史をごっちゃにせんようにしたいという自戒……脱線しすぎた!

*3:というかまず「にけらし白」の補足をした方がいい……「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山/持統天皇」の「にけらし白」です。

*4:参考:「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫

*5:白神の礒はどんな場所なのか知りたかったが未詳で、「白神の礒」というフレーズは万葉集中他の歌に出てくることはないようだった。旺文社文庫万葉集各巻の地名索引調べ