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わたいしの時もある

谷に掛かるかずらみたいに

谷狭み峰に延いたる玉葛
 絶えむの心わが思はなくに
 (万葉/巻十四/3507)

 歌の核としては「ずっとあなたのことを思っているよ」というよくあるものだけど、表現が独特です。
 訳すなら「谷狭み峰に延(は)いたる玉葛」谷が狭いので嶺にまで(蔓を)伸ばしている玉かずらじゃないけれど「絶えむの心わが思はなくに」絶えるような心で私は思っていないのにな、という感じでしょうか*1
 谷を越えて伸びる「玉葛」を例にとって、自分の一途な心を伝えています。
 
 少し気になるところがふたつあるんです。
 ひとつは「谷狭み」。一途さの理由は家が近かったからとか、何か物理的な理由があるのかと思えてしまいます。玉葛が谷を越えたのは谷が狭いからと歌われているなら、ずっとあなたのことを考えているというのにも理由があるのでしょうか。
 もうひとつは下の句の迂遠な表現。絶えるような心で私は思っていない、と二重否定のようになっているのが何ともまどろっこしい気がします。
 しかし、この歌を見つめているうちにしっくりくる説が浮上してきました。
 「狭み」よりも「谷」がモチーフとして重要だと捉える読み方です。谷は尾根を隔ててしまうもの、それがかずらで繋がっている、というふうに上の句を捉えると、下の句の絶えるような心じゃないよと、二重否定する構図とバッチリ合います。
 物理的に離れていても心はあなたのことを思っています、というのを、谷を越えるかずらに託して詠んでいる歌ということなら、一首を通した詠者の意図がわかるような気がしました。
 最後に、これは完全に個人的な読みになるのですが、この谷にかかるかずらを皆さんはどこから見ましたか? 私は初句に「谷」と出ているからか、暗い谷の底から狭くて明るい空に蔓の影を見ていました。山を歩く詠者にとって、大事な人の存在は暗闇の中の光だったかもしれないなと思いました。

*1:参考:旺文社文庫「現代語訳対照 万葉集(下)」