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わたいしの時もある

波立つ解釈は違う?

山のまの渡るあきさの行きて居む
その川の瀬に波立つなゆめ
(万葉/巻七/1122/鳥を詠む)

 「山のまの渡るあきさの行きて居む」山の間を飛んでいくあいさ(という川鳥)が行って降り立つ、「その川の瀬に波立つなゆめ」その川の水面に波よ決して立たないでくれ*1、という感じの歌。一読して、立つ鳥後を濁さず、ということわざの真逆で、降り立つ鳥のために水面よ静かであれ、という構図の特殊さに興味をひかれた。

 すこし脱線するのだけれど、最近「若いファンは、苦手なコンテンツの悪口を言わない(拙要約)」という呟きを目にして、確かにと思ってしまった。わたしもここで苦手な歌を紹介したことはあんまりなかったと思う。それと同時に、それで何がいけないの?と、くってかかりたくなる自分もいて、「悪口言わないね?」という指摘が思いのほか自分の心を乱してくることをおもしろくも思った。

 多分ある種の怠惰さ、ファストさ、時短視聴を咎められているような嫌さがあるのだろう。悪口を言わないのはインターネットにおける自衛仕草だと思うけれど、同時に、コンテンツへの態度を固定することは、感情のコスパがいい。この辺りがわたしの心をざわざわさせるのだと思う。でも誉めたいっていう欲求の根っこには、憧れとか、自己の相対化とか、仮託とか、いろんな感情がある中に、願いだってあると思いたい。

 鳥の無事を願うことだってもちろんあろうと思うのだけれど、あえて人に引き寄せて補助線を引こうとするならば「身近な人が出張先まで無事に到着して欲しい」という願いが裏地に縫ってあると考えてもいい歌だと思う。感想は作品と分断されいて、そこにはただ他の人に自分の推しが万難を排しフラットに届いて欲しいという願いがあるのだと思う。*2*3*4*5

 

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

*2:うまくいくかどうかはまた別

*3:断絶からしか、期待とか願いとかは生まれないのか?

*4:立つ鳥跡を濁さずって、単に美意識的側面もあれど、もしかして結構共同体寄りのことわざでもあったりする……?

*5:悪口という言い方はちょっとずるいかもしれない。それに褒めだけが許されているような風潮もどうかと思うし。自分だけ悪口言ってるみたいになんのも嫌だよな……感想を読者が評価するのがおかしいとして、でも作者も評価するもんじゃないし、編集者がオビとかに商用利用するくらいしか評価指標なんてないんじゃないか?くらいの気持ちもある。では感想に人が求めているのは人の気配くらいなもんじゃないのか。ここに結論はないです。ない!