わたいりカウンター

わたいしの時もある

四十音始終(一)

 

淡いだろ 一番いいとうらやんで
え働けず 幼かったです

隠しても気にならないの?くさいけど
倹約を旨と 孤独で死ぬと

砂漠までしじみを飲んで健やかに
生活はつづく そんなことある?

無料(タダ)よりも血が通ってるつみき積む
手に浮く線は途絶えず伸びてよ

ナン食べる人間だったぬばたまの
ねこが紛れる野辺の秋風

歯並びが引く水平線風呂に浮く
屁を見て鼻はほのかに動く

「待ってるよ」身近な人の村雨
目元を見ても戻らないから

ラッパ吹くリクガメばかり瑠璃色で
レンガを積んで労働未遂


ありがとうございます

 

 

 読んだもの、観たもの、聴いたものなどを羅列する回というのをこれからちょこちょこやっていきたいと思います。綿入り、というふわふわした不定形のイメージと、What I read というちょっと簡素で構造的なイメージの間を行きつ戻りつ文章を書いていくつもりなのです。どうせやるなら思いっきりやったほうがいいのは理屈ですが、昨日はちょっと、片方にふれすぎました。パッションと同じくらい理性を持ってくれ、ということで、せめて今日は、なるべく短く、短く書くことを心がけたい。



・『聲の形』1巻/大今良時
 めちゃおもしろい。小中学生特有のコミュニティとその崩壊も、悪い人間(大人も子供も)の描かれ方の豊富なバリエーションとそのリアリティも、主人公の行動原理の描かれ方の巧みさも全て、視点人物と読者が同じ人間をじっと見つめてしまうようにする工夫としても成立していて、満ち足りた読後感の一冊になった。唯一覚えている前情報の通り、担任がまごうことなきクソ野郎だったのでなぜか安心した(たぶん、相対的に主人公のことをそこまで嫌いにならずに済んだから)。

・Conva「サークル」

 とある大学サークルの一室で、いろんな顔を見せる異性の友人に困惑しながら、オタク青年の下したある決断とはーーという感じのコントなのだが、登場人物一人ひとりの解像度が高く、それでいて構成の妙も評価されるべき傑作だった。人間や社会といった、自分以外の存在の複雑さに困惑しながら、それでも、それとどう向き合うのか、という、極めて普遍的な命題にも肉薄しながら、ロバート秋山、というよりも友近のような、ハイエンドな一般人モノマネも楽しめるので、是非。

・『群黎 I』佐佐木幸綱
 まだ途中までしか読めてないが、熱量溢れる好歌に満ちていて、どの歌にも日々を生きる人間の気配がする。上質なエッセイのようでいて、優れた思想書のような一面も垣間見えて(たまに挿入される短文がまた いんすよ)、自分にとってはあたらしい読書体験になっている。勅撰集(アンソロジー)を読み慣れているからか、一人の歌人の歌を連続で読むのに若干の抵抗があったけれど、気づいたら、なくなっていた。比較的細かめに章立てされているのと、多くの歌に詠者の歌風の背骨が浮き出て見えるところが大きいような気がしている。

 

 さて、今回箇条書きをやってみて振り返ると、わたしは、人間(のストレス)が匂い立ってくるような作品が好きなんだなあ、と思う。これまでの和歌紹介では、基本的には、その歌の景色や詠者に寄り添って、わたし自身は媒介(だし)であると自覚し、その歌の持つ人間性を際立たせる形で紹介しようとしてきたつもりだ。けれど、特に前回は、歌よりもわたしが、わたしよりも型式が際立ってしまっている点に功罪があり、罪としては、その構造が歌にあまり奉仕していないところだと思う。
 けれど、功もあった。わたし個人の話になってしまうのだが、ここで文章を書くそもそもの動機の一つとして、客観的な情報だけでなく、感情を伴った自己開示を自然にできるようになりたい、というのがあった。で、情報と感情の間にある文章が、紹介、だったのだ。なので、その振れ幅がだんだん広くなっていること、そしてそれらを楽しんで読んでくれる人がいることは、とてもうれしい。ありがとうございます。
 また、まだまだ振れ幅を広げていきたいので、困惑、される回もあろうかと思うのですが、行きつ戻りつしながら、いろんな形で、作品に誠実であろうと努めますので、これからもどうぞ、よろしくおねがいします。

和歌じゃない短歌の紹介の仕方がわからない

恥知らずそれはペンギン羽撃(はばた)けど
翼とならぬ歌の数々
(『群黎 I』佐佐木幸綱「動物園抄」)

 たくさん本を読んでいるわけじゃないけれど、わたしなりにオールタイムベストを選ぶならその中に必ず『ペンギン・ハイウェイ』が入る人間なので(?)、上の句「恥知らずそれはペンギン羽撃けど」を読んだときは、ほう、いいでしょう、決闘ですか? とファイティングポーズをとったが、下の句を読み終えると同時にもんどりを打って地面に転がることになった。何をされたかわからないまま倒れているわたしも観客の皆さんも(もしもうすでにわたしも地面に転がっているよ、という人がいたら砂利敷きの地面に頬を乗せたわたしと目があっていますね。テクニカルK.O.を告げるジャッジの声が聞こえますか?)、スローモーションでもう一度映像を振り返ってみましょう。

 まず上の句ですね、これは、至って普通のジャブに見えますが……はいここ! よく見ると母音Aが「恥知らず」「羽撃けど」と響いていて、少ないながらもメリハリの効いた質の高いジャブになっていますね。この歌のモチーフである「ペンギン」という言葉も自然に際立たせている気がします。しかし、響きはともかくとして、上の句の意味自体はただただペンギンに対して挑発的で、それでいて自己開示もなく、メンタルをノックアウトするだけの威力に欠けるように思われます。となると……やはり下の句が強烈だったようですね。

 下の句には同じモーションを逆再生したようなフェイントがリズミカルに2回も使われているようなのです。しかもその2回の外しさえ似ているようで微妙に違う。これにはガードも意味をなしません。ゆっくり流れる映像の母音に注目してください「翼」uaa「ならぬ」aau、まずここですね。一瞬上の句と同様に右手から繰り出される母音Aに目が行きがちですが、よく見ると母音Uまで対応しています。このコンビネーションでガードが完全に崩されている。そして……ここ! 「歌」ua「数々」auau、いや、これは、ガードが下がったところに左右のラッシュを決めるのはセオリー通りの動きではあるのですが、ここで先程の「翼」「ならぬ」の母音A Uのガードを崩す押し引きの呼吸を、一度uaを見せてからauauと畳み掛けるラッシュの構造にも援用していて、これは……現役でも、いや、歴代含めて、食らって立っていられる選手はいないんじゃないか……?

 さて、全体を振り返ると実はもう一つの押し引きが意味の上で行われていることに気づかれましたでしょうか。「恥知らずそれはペンギン羽撃けど」では全く感情移入などしていないような素振りをしておきながら「翼とならぬ歌の数々」と、遠く遠くへ届けたい言葉がいくつも足元に転がっているままならなさを吐露する。自分の悩みを打ち明けるような形で、内省も、ペンギンへ想いを寄せることにも成功しています。ペンギンへの軽視をフェイントにして、自己開示と同情を同時に打ち込んでくる。その威力に倒れない人間がおりましょうか*1

 おや、そろそろお時間のようです。最後に同じく「動物園抄」で冒頭歌の次に並び、巻末首でもある歌を紹介して終わりたいと思います。実況はわたしでした。おやすみなさい、さよなら、さよなら。

荒々しき心を朝の海とせよ
海豹(あざらし)の自由いま夢の中

*1:放送後、実況は電源の切れたマイクにため息を落としてひとりごちた「わたしには下の句「翼とならぬ歌の数々」に親心さえ感じられました。自らの歌が形を得て空に羽ばたいていくなら、遠く遠くまで飛んでいってほしいという親心をです」

対決まほろば目に見えない

春霞はかなく立ちて別かるとも
風より他に誰かとふべき
(後撰/離別 羈旅/離別/よみ人知らず/1342)

 中学時代、毎日のように朝昼卓球をしていた将棋部の友だちがいた。彼とは将棋盤を挟んでもアホほど対局したし、いま振り返ると、ちょっと気持ち悪いくらい一緒にいたものだ。けれど、学校が変わってからは、ぱたりと音信が途絶えた。改めてメッセージをやり取りするだけの距離には戻れなかったのだ。

 歌はなんだか寂しそうにしている。「春霞はかなく立ちて別かるとも」春霞が淡く立つみたいに(わたしは)旅立って(あなたと)別れるとしても「風より他に誰かとふべき」ふく風より他に誰が訪ねてくれるだろうか(いや、誰も訪ねてくれやしないんだ)、という感じの歌*1。春霞が、「立つ」にかけて旅立ちを表現するだけでなく、その別れをほんのり際立たせる壁のような役割も果たしていてめっちゃいい。

 関係がなんとはなしに疎遠になる感じには身に覚えがあった。卓球台のネットやら将棋盤を挟んで長いこと顔を合わせた彼のことを親しく思う一方で、学校が別になるとなんとなく連絡をしづらいと感じる、この近いようで遠い関係は、決して決定的な断絶ではないものの、まるで薄い膜に隔てられたような不思議な遠さがあって、それはもし形容するならちょうど「春霞に隔てられた」と言えたかもしれなかった。

  返し

目に見えぬ風に心をたぐへつつ
やらば霞の別れこそせめ
(後撰/離別 羈旅/離別/伊勢/1343)

 後撰集には、さっきの歌の返歌もあった。「目に見えぬ風に心をたぐへつつ」目に見えない風に心を寄り添わせながら「やらば霞の別れこそせめ」流したなら霞もきっと分かれてくれる(道を譲って便りを届けてくれる)でしょうよ*2と、なんとも好意的に返事をしてる。心は相手の方へ向かっているし、景色も、まるで真っ白いのれんの はためくみたいに分かれていく春霞がうつくしい。

 また「目に見えぬ」という表現に、ほのかにやさしさの気配がある。あなたを大事に思ってるよ、それは目に見えないから、あなたが気づかないのもしょうがないかもしれないけどさ、と、伊勢は自分の心が伝わっていないことを、相手でも自分でもなく「心が目に見えない」せいにしているようにみえるから。

 ふと、卓球も将棋も物質的には価値はなく、ただ二人で勝負しているという状況こそが、二人の関係を繋ぎ止める唯一のあり方だったかもしれないと今更ながらに気づいた。そんなの、ティーンの頭でわかるわけないじゃん! と得体の知れない何かに怒りながら、なんだかまた、将棋盤の向こうの彼の「よろしくおねがいします」が聞きたくなってきた。

*1:参考:「後撰和歌集新日本古典文学大系

*2:参考:同上

爆音乗詠

あまのはらふみとどろかしなる神も
思ふなかをばさくるものかは
(古今/恋四/701)

 家の近くをよくバイクが通る。何も窓の外をじっと眺めている訳ではないが、わかる、というか否応なしに聞こえてくるのだ。そのエンジンの大きな音を聞くたびに、わたしは、どうして人は大きな音に魅せられるのか考えてしまう。何度も、何度も。今振り返ると、逃げ場のない騒音という現実から逃避するためなのかもしれないが。

 歌を訳すなら「あまのはらふみとどろかしなる神も」空を踏み轟かす雷も「思ふなかをばさくるものかは」想い合う仲を裂くことができるだろうか、いやできまい! という感じか*1。いや、景気がいい! 雷で空が裂けても、ふたりの仲は裂かれない! とは、なんとも大きく出たなと思うけれど、轟音と共に雷光があたりを包んでも、微動だにせず自分たちの恋仲を信じて疑わない詠者の横顔は凄みがあって、本当にそうかも、と思わせてくれるだけの迫力があった。

 バイクを轟かしている人は、日頃何か辛いことがあるのだろうか。あるいは、ままならないことが言葉にならないまま澱のように心の底に溜まっていくのが耐え難くなってそのうちに、今日はバイクに乗ろう、という日がくるということなのだろうか。唯一自分の手で自由にできるのは、この爆音轟くバイクのアクセルだけ、という状況になった時に、果たして自分は突っ走らずにいられるか。……正直に言って、自信がない。わたしにとってのアクセルがたまたまキーボードだったというだけではないか。

 歌に戻ると、この大音量インド映画みたいな歌のことを考えているうちに、この詠者の威勢の良さの生まれたところはどこなのだろう、という疑問に行き着いた。雷を相手どって、空が裂けても恋仲は裂けず、と高らかに宣言させたのは、なんだったのだろう、と。

 単なるキザな歌、と考えるにはあまりに真に迫っている。恋四という部立てに配されているあたり、恋が始まって結構時間が経っている歌という気もする。今まさに始まった恋、というよりも、育んでいた恋が難局に差し掛かり、それでも、負けるものか! と叫ぶような日常こそが、雷光に照らされ濃くなる陰影のように、鮮烈に詠者に迫っているのではないだろうか。

 恐ろしくて懐の深い底なしの闇みたいなインターネットに向かって打鍵するわたしも、衝動に任せてアクセルを握り込み轟音響かせるライダーも、自分の恋の不変を天を裂く雷と張り合って歌う詠者も、根っこはそんなに変わらなくて、いつか平日の昼間に一人カラオケに行ったら三人とも隣の部屋だったみたいなことも、あったらいいと思った*2
 

*1:参考:「古今和歌集日本古典文学大系

*2:一人カラオケに行った時に、隣の部屋からも延々同じ声がうっすら聞こえる時の、あの名状し難い安心感は一体なんなんですかね

時には明るくないほうが

白雲の来宿る峰の小松原
枝繁けれや日の光見ぬ
(後撰/雑三/時に遇はずして、身を恨みて籠り侍ける時/文屋康秀/1245)

 明るい、と言われて真っ先に思い浮かぶ色は白だった。白は光そのものでもあり、光の気配でもあるらしい。
 歌を訳すなら「白雲の来宿る峰の小松原」白雲が来て留まっている峰の小松原では「枝繁けれや日の光見ぬ」枝が繁っているからか、日の光が見えねえんだわ、という感じか*1。のどかな景色のようでもあるけれど、詞書に「時に遇はずして、身を恨みて籠り侍ける時」とあり、帝からの寵愛(出世)がなくて、引きこもってる時に詠まれたものだとわかる。日の光は帝の寵愛(出世)の暗喩だと思うと、きれいだなあと楽しんでいた白雲も小松原もその枝も、なんだか急にそっけない感じがしてきた。
 ふと、黒い雲と白い雲の違いを思った。平安時代には乱反射云々の話は知られていないだろう。けれど、きっと雲の厚さによって遮る光の量が変わるのだと、身近な布や服を通して知っていただろうと思う。薄い雲は白くて、厚い雲なら黒いことも。
 日の光が帝の寵愛のことを示すなら、わたしに差さない日光ならせめてその気配を感じたくないと思うのも人情ではないか。けれど康秀の目の当たりにしている景は、雲が反対側で日の光を受けている気配を、その白さによって惜しげもなく披露している。わがままだってわかっているけど、見えないところでやってくれよ。そういう意味では黒い雲の方がまだマシなのだ。やんなっちゃうって、わたしなら。
 しかし康秀がやさしいというか、愛嬌があるなと思うのは、「枝繁けれ」と日の光が見えない理由をあくまでも疑問形で表現しているところ。いや〜なんかよくわかんないんすけど日の光が見えないんすよ、枝でも繁ってんのかな? というような、悲しみの中にあってどこか前向きな康秀の詠みぶりが、わたしにはまぶしかった。

しをるもしをらないも

しをりせで猶山ふかく分けいらん
うき事聞かぬ所ありやと
(新古今/雑中/西行法師/1641)

 歌を訳すなら「しをりせで猶山ふかく分けいらん」枝も折らないでさらに山の奥へ入っていこう「うき事聞かぬ所ありやと」いやなことを聞かないで済むところがあるかと思って、という感じでしょうか*1
 「しをり」とは枝折りのことで、山道を進むときに帰り道の目印となるように枝を折っておくこと。だからか「しをりせで」から、こんなやなことばっかり聞かなきゃいけない社会になんてもう戻ってこないぞ、みたいな意思を感じてしまって、ちょっと羨ましく思った。わたしはなんだかんだ、この世界の正しさみたいなものから褒められたいと思っている節があるからだ。最悪すぎる願望だと自分でも思う。
 しをりって漠然と捉えるなら目印ということなんだろうか。現代の本に挟む目印だって栞という。わたしは毎日何かしらを読んで観て考えて、そしてそれらを書き残したくて書いている節もある。毎日書くぞと意気込んでいるわたしをみて、西行は笑うだろうか。
 でも、本当に山の奥へ奥へ行きたいのなら、やっぱり目印は必要なんじゃないの? とイマジナリー西行に笑われたから聞き返してみた。返答は返ってこない。わたしは続ける。だってさ、もし山道に迷って途中で気づかず来た道を戻ってきてしまったら、あなたが、いや、わたしもやだなって思ってるよ? その社会に戻って来ちゃうかもしれないじゃん。結局、ふんわり社会と関わりを持つ余地は残しておきたいんじゃないの? しをりしてもせでも変わらないなら、なんとなくわたしはしをる方を選ぼうと思うよ*2。勝手に。だから、もし山道でしをったのを見つけたら、わたしがしをったかもしれないと思ったらいいよ。またね。

*1:参考:「新古今和歌集日本古典文学大系

*2:話してる時は忘れていたけど、この歌が西行のしをりなんじゃないの? 今度会ったとき謝っとき