わたいりカウンター

わたいしの時もある

青信号は?

水鳥の鴨の羽色の春山の
 おほつかなくも思ほゆるかも
 (万葉/巻八/春の相聞/1451)(詞書に「笠女郎、大伴家持に贈る歌一首」)

 最近「怪奇!YesどんぐりRPG」というトリオの動画を楽しみにしている。チャンネルではいわゆる賞レースに臨むライブの動画*1もあれば、メンバーの一人が思い付いたネタの原石を残りの二人に見てもらっているような動画もある。昨日見ていやされていたのはこちら。

 これは後者の方で、まだネタとして完成しきってないので、動画がどこで終わるか、どんなふうにネタが転がっていくかドキドキしながら、見守ることになる。青信号は「止まれ」か「進め」か、悩ましげに考えているどんぐりたけしがネタにぶつかっていく。
 歌は、不安ながらにあなたのことを思っているよ、という恋の歌*2
 上の句「水鳥の鴨の羽色の春山の」は、鴨の羽の色が緑色であることから、緑生い茂る春山につなげている。さらに「春山の」までの上三句が「おぼつかなく」を導く序詞になっている。あざやかな緑を強調しておきながら「おぼつかなく」はっきりしないってどういうこと?と思ったけれど、春は霞が立ちやすく、遠くの山も霞に遮られて見えなくなりがちなため「おぼつかなく」につながるらしい。
 詠者はこの恋をどう思っていたのだろう。下の句はシンプルなので、上の句を眺めながら考えていた。
 そこでふと緑が強調されていたことを思い出した。もしこれが秋の山なら、黄色の山になるだろう。霞さえ晴れたなら、緑が見えると詠者は思っているのではないか。
 信号は青は進め、黄色は停止を仄めかすサインだ。歌の中で、覆われている山の色が緑なのは、恋に期待しているからではないか。そこまで考えて、万葉の時代にはそもそも信号なんてないことに気がついた。
 信号の線はないにしても、春はこれから緑が生い茂る、ふくらんでいく季節だ。そう考えると、詠者はこの恋に期待をしていたのかもな、と思う。

*1:こちらをご存知の方も多いのではないか。

*2:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集

音が教えてくれる

ねやの上にかたえさしおほひ そともなる
 葉ひろ柏に霰降るなり
能因法師(新古今/冬/655)

 家でエナジードリンクをたまに飲む。味は好きだけれど、毎日のむとだんだんおいしく感じなくなるから不思議だ。頭で好きと思っていても、内臓の方はエナジードリンクのことが嫌いなのかもしれない。
 冒頭歌は、家の軒先を覆う葉の広い柏に霰が降っている、という歌*1
 歌の核はやはり下の句「柏に霰降るなり」だと思う。大系の頭注には、それが「葉ひろ(広)」の柏であると歌うことで、霰が葉っぱに当たって出る音がよく聞こえることを示しているとある。なるほど〜異論なし! それを起点に上の句「ねやの上にかたえさしおほひ」の部分を考えると、普段、茅葺の屋根からは霰が降ってもあまり音はしないけれど、今日のあられではやけに音がする、軒先を見上げてびっくり「葉ひろ柏」、とこういう経緯があったのではと妄想する*2
 歌を読んでいるうちに、ばらばらと小粒のあられがビニール傘を鳴らすような音を想像してちょっと和んでしまった。ビニール傘ならあられが当たっていると一目でわかるけれど、屋根の上から心当たりのない音がしたらちょっとギョッとするだろうなとも思う。
 このあいだ家でエナジードリンクを飲みつつ考え事をしていると、身に覚えのないノイズのような音が耳をかすめた。なんだなんだ?と音の源を探ると、エナジードリンクの缶から、かすかに、炭酸の泡が缶の底から上がってくる音がしていた。飲み物から炭酸の抜けていく小さな音が聞こえるくらい、部屋が静かだった。

 

*1:参考:「新古今和歌集日本古典文学大系

*2:能因法師がどんな屋根の家にいたのかはわからないので妄想です。能因法師の他の歌を調べ尽くせばある程度推測はできるのかもしれない。

晴れてはないけど

はれやらぬみ山の霧のたえだえに
 ほのかに鹿の聲聞ゆなり
 (山家集/上秋/300)

 昨日すごい決意を固めていた風だったけれど、今日は日がなSplatoon3の体験版をプレイしていた。あんまり外に出られないし、しょうがないけれど、体験版の12時間の制限時間のうち1時間半ほどやらなかった。他にやることはないのか。まあ日曜日は何かと混むし、買い出しは、スーパーが混んでなさそうな平日の昼過ぎに行こうと思う。しかし、症状はないが検査をしたわけでもなく、規定に従って何日か自宅待機をするというのはなんとも、宙ぶらりんではある。
 
 さて、そんなにはっきりしない景色と声の組み合わせが、はっきりとストロングポイントになっている冒頭歌。「たえだえに」が上の句の「晴れやらぬ山の霧」にも、下の句の「ほのかに鹿の聲聞こゆなり」にも響いているのが楽しいところです。
 「はれやらぬ」のやるは現代語で言うところの「思いやる」の「やる」で、自分から遠く離れたところまで直前の動詞の影響が及ぶことを意味する。「山の霧」は遠くまで広がっていたんですね。
 見晴らしの悪さは、単に景色を楽しめないだけじゃなくて、旅が危険になることも意味していたと思います。なので、霧が途切れとぎれになって、ほのかに鹿の声が聞こえてきたのを、西行は旅の安全の気配として感じたかもしれません。
 57577の中で、感情が述べられているところはありませんが、西行の歌詠みとしての気づきは三句目「たえだえに」を上下の共通点として歌を作ったところに発揮されている気がします。
 周囲の景色を楽しみながら、ほんのり未来に期待するところがよかったです。

滝はずっと流れている

くる人もなき奥山の滝の糸は
 水のわくにぞまかせたりける
中納言定頼(後拾遺/雑四/1055)

 隣の部屋から咳をする音が聞こえる。しばらく外出してはいけない、ということになってしまった。そのせいか、今日一日ふわふわしてやることが手に付かなかった。
 歌は、人のこない奥山の滝の流れは、ただ水が沸いてるってだけなのだなあ、という歌*1
 「くる」が「(人が)来る」と「(糸を)繰る」、「わく」が「(水が)湧く」と「枠(糸を巻き取るための木枠のこと)」で掛詞になっている。人が見ていないところでも淡々と水が沸き*2、思わず眺めてしまうような滝が存在し続けている不思議さ。「繰る」を縁語にして登場する「滝の糸」という自然と人工物の対比が、「水の湧く(枠)」と続く掛詞ひとことで表されているところに、この歌の愉快さと、詠者の執念を感じる。この滝の眺めがこんなにも心を動かすのに、誰が整えたわけでもなく、誰が見ようが見るまいが関係なく、ずっと自然に存在し続けていたことに対する驚きを、絶対に表現するという執念を。
 そしてその執念を考えるよりも先に、私も「この滝すげぇな」と思ってしまった。誰に見られるでもなく、家で自分のなすべきことをせよ、持ち場に戻れと言われているような気がした。身近な人が流行り病で伏している不安はしょうがないにせよ、それをやるべきことが手に付かないこととごっちゃにしてしまうのは甘えだった。
 

*1:参考:「後拾遺和歌集新日本古典文学大系

*2:更新してから気づいたのですが三句目「滝の糸は」が六文字で一字あふれているのは、四句目の流れを作り滝になるまでこんこんと湧く水の前振りになってるんですかね。かなり好きなタイプの字余りかもしれない……。

沈みこむような閉塞感

わたつみとあれにしとこを今さらに
 はらはば袖やあわとうきなん
伊勢(古今/恋四/733)

 8月も残りわずか。そういえばもう何年もプールに入っていないことに気づきました。
 歌を訳すなら「わたつみとあれにしとこを今さらに」(涙で)大荒れの海みたいになっている床を、今さら「はらはば袖やあわとうきなん」払ってみてもただ袖が泡みたいに虚しく浮いてしまうだけだろうか、という感じでしょうか*1
 涙が海みたいになっている、という誇張表現が目をひきますが、歌の核は「今さらにはらはば」以下の、自分ではもうどうしょうもない感情に対して半ば諦めているところのような気がします。
 服を着たまま泳ぐのは難しいように、悲しみの染み込んだ心はなかなか浮かび上がれない。恋の歌ではありますが、最近感じている閉塞感と無力感が、この歌と近しい気がして、少しだけ和らぎました。
 もう最後にプールに入ったのがいつだか、わからなくなってしまいました。ゴーグルをつけてプールの底から水面を見る時の、くぐもった音と光も、ぼんやりとしか思い出せません。
 今、キーボードを叩いているこの部屋が、もし海みたいに水で満ちたらと考えました。……本が濡れるのは困ります。シュノーケルが欲しいな。
 深呼吸をしてみたら、意外と空気が周りにあることに気づきました。

朝戸を開ける理由

言繁み君は来まさずほととぎす
 汝だに来鳴け 朝戸開かむ
 (万葉/巻八/夏の相聞/1499)

 末句「朝戸開かむ」の爽やかさが目に止まったのですが、読んでいくうちに「朝戸」開けちゃダメなのでは?と心配になりました。というか、爽やかどころの話じゃないみたいです。
 誰が歌ったかはわかるけど、誰が作ったかはわからない歌です。詞書に「大伴四縄の宴吟の歌一首」とありますが、宴席でみんなの前で歌った歌という点や、四縄がのちに「雅楽助」という歌を読む役職になる人というのもあり、四縄自身の歌ではなくみんなが知っている古歌とか民謡だと解釈されているみたいです。「君は来まさじ」と恋人が来ないことを嘆いているところからも、詠者は四縄でもなく、男性でもない可能性が高そう。
 歌を訳すなら「言繁み君は来まさずほととぎす」噂が広まったからか貴方はいらっしゃらない。ほととぎすよ「汝だに来鳴け 朝戸開かむ」お前くらいは来て鳴いてくれ。そうしたら朝戸を開くよ、という感じでしょうか*1
 5757までは分かるけれど、最後の「朝戸開かむ」が最初はいまいちわかりませんでした。
 旺文社文庫の方の脚注に「男を待つ女の歌であったもの。朝戸開カムは我が君を送り出す気持ちをこめた表現であろう。」とあって、それでようやく色々腑に落ちました。恥ずかしながらふたつびっくりしました。
 ひとつは、貴方が来ないのを朝まで待っていたことが暗に描かれていたこと。この間夜更かしについて少し書いたけれど、待ちぼうけて朝になってしまうのはなかなかつらいものがあります。
 もうひとつは、「朝戸開けむ」が暗に悲しさを描いていたこと。もし男が来ていたら、朝送り出すときに開けたはずなのに、来ないから送り出せなくて開ける理由がない。そこで、ほととぎすが来てくれたら、朝戸を開ける理由になるから来て欲しいと歌っていたんですね。ここで暗に描かれているのは、ほととぎすさえ来ないのなら、私はもう朝を受け入れたくない、このまま暗闇の中でうずくまっていたい、そのくらい悲しいということではないでしょうか。
 ここからは完全に私の想像です。朝戸が閉じていた時にほととぎすが来たなら、鳴き声で気づいて戸を開けるでしょう。その時、ほととぎすはびっくりして飛び立ってしまうかもしれません。それを見て、誰かを見送りたい欲が少しは満たされるかもしれませんが、満たされた分だけ、相手との関係が終わりに近づいていってしまうような気もするのです。

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集
  「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫

船の梶の柄になりたい時

たまきはる命に向かひ恋ひむゆは
 君がみ舟の梶柄にもが
 (万葉/入唐使/巻八/春の相聞/1455)
 
 週末までに恋の歌を集めないといけないので、万葉集の相聞の歌を読んでいました。
 冒頭歌は遣唐使ではなればなれになってしまう時に相手に寄り添った歌で、「仕事とあなただったらあなたのほうが大事だよ」と歌いながら、詠者は命懸けの船旅に出ることになります。
 同1453番の長歌の詞書に天平5年(733年)笠朝臣金村が入唐使に贈る歌とあり、その歌に入唐使(の誰か)が応えた2首のうちのひとつです。
 訳は「たまきはる命に向かひ恋ひむゆは」命がけで恋するよりは「君がみ舟の梶柄にもが」あなたのお船のための梶の持ち手にでもなりたい、という感じでしょうか*1
 恋するよりも梶の持ち手になりたい、と言われてもすぐにピンと来なかったのですが、背景を考えると結構重い感情の歌のような気がします。
 当時の遣唐使は、航海技術の都合、確実に行って帰ってっこられるものではなかったからです。それでも文化や技術を吸収して戻ってくるために、任命された人たちは命懸けで唐を目指しました。
 そこで「君がみ舟の梶」が気になって来ます。船の進行方向を決める梶になりたい、というのはこれから長い時間船で移動する人の語彙選択として極めて自然ではあります。けれど、それがただの梶ではなく、詠者が恋い慕う「君が」恋人の船の梶であるところに強めの感情を読むこともできます。
 仕事で向かう船旅よりも、貴方の行きたいところに行こうよ、私がその方向に船の向きを合わせるから。そんなニュアンスが「君がみ船の梶」にはあるかもしれません。
 官僚であるはずの詠者は、仕事ではなく恋人に献身したいと歌う。実際には遣唐使として唐に向かっているにしても、勅撰集には採りづらい歌でしょう。しかし感情の密度の濃くて、惹きつけられてしまう歌です。こういう歌が読めるのは、勅撰集(天皇の命で作られた歌集)ではないとされる、万葉集の面目躍如と言えそうです。
 
 

*1:参考:「萬葉集 2」日本古典文学全集