わたいりカウンター

わたいしの時もある

□ わたしもあなたもロボットではありません

 コミュニケーションが手段になってしまうことはこわい。それは例えば収益化やアフィリエイトみたいな話になればかなりこわい。そう見えないようにするという努力(とか違うおもしろに注意をそらして楽しませようという努力)は、人間の気配があって(そしてそこに人はにじみ出てしまうから)話を聴いてみようかという気にさせるけれど、そういう屈託さえ感じさせないものは、ああ、この言葉には額面の意味など無く、手段なのだ、あえて丁寧な言葉にするのなら「仕事」としてやっているのだとわかる。他者の倫理が自分のと同じくらいだと錯覚することは、お酒を飲み過ぎたときの全能感に似ている。二日酔いと共に目が覚めれば、もう二度と酒は呑むまいと思うように、人に期待するのを諦めたり。わたしがとりうる手段としては「通知を切る」があった。それでも、アクセス数は気になってしまうのだから、結局自分に都合の良い反応だけを相手に強いる傲慢で虚しい手段なのかもしれない。でも、書かなくなるよりかは、わたしにとってずっと良いから、それがあなたにとってもちょっとはましであったならありがたいです。わたしにとって作品に感情移入した心をなるべく共有できる形で書きだしているのは、記録であり、過去と今と未来の読者と仲良くしたい願望と決意表明で、著者への敬意で、「わたしはロボットでありません」でもあるのだと思う。書いてみるとたくさんある。たぶん他にも。そう考えると、というかあたりまえに、コミュニケーションは手段である。けれど、主体が「人だよ~感情豊かだよ~」みたいな顔をしておきながら、その目的が単一であると、ひどく哀しくてグロテスクに思えてしまう。目的の複雑さ、曖昧さはある種の豊かさであり、自他の逃げ道(クッション?)にもなるのかもしれない。

 P.S.じゃあなんで個人サイトとかでなく既存の場所で文字吐いてるんだよって話なんですけど、たぶんそれはわたしの場合は怠惰とか余裕のなさとかにあるし、わたしが苦手に感じるタイプのコミュニケーションも、わたしが他のよりよいことがわかっているけれどしないのと同じ理由(怠惰とか余裕のなさ)で発生してるのかもしれなくて、だからこれ以上は保留です。あとは複雑さとは別に、相手に、客だったり店員だったり恋人だったり、ある特定の立場を強いるみたいな機能が、コミュニケーションが手段になることを苦手にさせるのかなと思うと、コミュニケーションがというよりも、一方的に人を手段にしてしまうことを怖がっているのかもしれない。それはそれで楽というか、そういう形の仕事が善も悪もなくあろうと思います。TPOみたいな話に収束していくのかもしれない。ここに結論はないです!

仕事と読み書き

 はじめて人がたくさんでてくる寄席に行った。お昼から三時間くらい。落語家さん曰く、夜より昼の方が雰囲気がまったりしていて良いらしい。夜のお客さんは仕事終わりだからか、みんな「落語を見るぞ」と目がぎらぎらしているとか。12月からの仕事もわりと残業がありそうなので、わたしも観に行くときは目をぎらぎらさせるようになるのだろうな、と思った。寄席はたのしかった。

 仕事をしていたときは、やっぱり毎日短歌を読んで、それを出力することはむずかしかった。そのときのむずかしさと、夜に寄席に来る人たちの目のぎらぎらさは、仕事をしている人の大変さというところでくくれるのかもしれない。

 仕事をしていると本が読めなくなるという話を聞く。そうでない人もいるとおもうけれど、たぶんわたしは読めなくなる側なんだと思う。毎日はたぶん無理で、でもたまになら読めると思う。その時々で書けること、書きたいことを書けるだけ書けたらと願ってみたい。

 P.S. ゲゲゲの劇場版がとてつもなくよかったのでおすすめです。

なぜ船は迂回したか

湯羅の崎潮干にけらし白神の
磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(万葉/巻九/雑/1671/大宝元年辛丑の冬十月、太上天皇・大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首(のなかの一首です)/*1

 「にけらし白」の部分が完全に百人一首二番で*2*3思わずじっくり読んでしまった。でも、考えていくうちにどっちかっていうと一番の気配がしてくる。天皇が「幸(いでま)す」御幸している時に誰かが披露した歌のようだ。

 訳すなら、湯羅(ゆら)の崎の潮が引いたのでしょう、白神(しらかみ)の磯の入江の内側を敢えて漕いでいるようです*4、という感じか。歌の感じはなんとなく好きなのだが、干潮だとどうして入江へ船を漕ぐことになるのか、ちょっとよくわからない。

 湯羅の崎では漁業が行われていたらしく、少なくともひとつ前の1670番歌には「朝開き漕ぎ出て我は湯羅の崎釣(つり)する海人(あま)を見て帰り来む」とある。おそらく冒頭歌は船で釣りをして戻った漁師が、波際が干潮で遠くなっているのを見て違う入江に回ったことを歌ってるのだろう。だが、そのまま湯羅の崎に船を泊めずに白神の磯*5の方へ回ったのは、なぜなのだろう。

 想像すると、船を入江に回さないとすると結構大変な労働が待っている気がしてきた。干潮の時に干潟に船を泊めても、結局潮が満ちた時に船を流されないように止めておくための工夫ができないだろう。となると本来の波際まで船を押していかなければならないが、干潟のぬかるみの中で船を押すのは物理的にも大変で、そして何より「冬十月」の海水と気候が冷たすぎるのではないだろうか。だから他の船に乗ったままで、船をきちんと止められる入江の方へ回る必要があったのではないか。

 そしてこの歌が労働の大変さを含意するかもしれないことは、御幸の時の歌であることとも関係するのかもしれないと思った。御幸の目的は民の暮らしの実情、たとえばその大変さを知ることにあったのではと思うのだ。たとえば農業の大変さも歌っている百人一首の一番の作者が、天智天皇であることに意味があるように。

 歌としての面白さは、白神の礒を漕ぐ船から眼前にない景色を想像できるところにあると思う。けれど船が白神の礒へ回り込んだ意味を考えていくうちに、冬に魚を獲る大変さを天皇に伝える意図もこの歌にはあったのかもしれないと思えてきた。叙景と文化ガイドの両方の意味合いを想像すると、新古今並みに情報量の多い歌になるのかもしれない。

*1:全集によると人麻呂歌集にも同様の歌が見られるそうです

*2:ええと、たとえば……有線で流れてきた知らない曲のあるフレーズが、自分の好きな曲のと同じだったりしたら、その知らなかった曲を何度も聞いてみようと思ったりしませんか? 例えが上手くないかもですが、そんな感じです。実際には多分百人一首のよりもこっちの方が古い歌だと思いますが。あ……いや、これは完全に脱線というか日記でしかないのですが、「映像研には手を出すな!」でたまに出てくるデフォルメで口(くち)がカタカナの「フ」のように描かれるシーンがあって好きなのですが、その後それより刊行年が古い「げんしけん」でも出てきて、こっちが本家か、と思ったり、いやこれより前に「フ」の口の表現があるのかもしれないなとか最近思いました。文化を年代順に追えるわけではないけれど、自分の最初に見たものが自分の中では古い地層に格納されるから、言葉を丁寧に選ばないといけないかもしれないとかも最近思います。万葉集はかなり古いと思っていい歌集ではありますが、小説や漫画などは私的オタク史と公的文化史をごっちゃにせんようにしたいという自戒……脱線しすぎた!

*3:というかまず「にけらし白」の補足をした方がいい……「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山/持統天皇」の「にけらし白」です。

*4:参考:「現代語訳対照 万葉集(中)」旺文社文庫

*5:白神の礒はどんな場所なのか知りたかったが未詳で、「白神の礒」というフレーズは万葉集中他の歌に出てくることはないようだった。旺文社文庫万葉集各巻の地名索引調べ

雪を見て

今日降りし雪に競いて我がやどの
冬木の梅に花咲きにけり
(万葉/巻八/冬雑/1649/大伴家持)

 今日降った雪に「競(きほ)いて」負けじと、我が家の冬木の梅にも花が咲いてきた*1、という歌。読んでびっくりした。確かに冬に降る雪を白梅に見立てる歌はたくさん観てきたけれど、無邪気に綺麗だなーと思うくらいで、実際に春に咲くのを控えている本物の白梅の気持ちなんてこれっぽっちも考えたことがなかったから。そして家持が描いたのは「競いて」負けじと咲こうとする白梅の姿だったから。白梅、かっこよすぎる。

 雪は見ている分には綺麗だけれど、現代では交通を大幅に麻痺させる要因にもなる。外出を妨げる質量のあるつめたいもだと思っていた雪を、白梅が開花する兆しとみなすのはすごい考え方だ。

 短歌は短い。だから言外に期待させる表現としての側面があると思う。家持は冬の積雪に、冬ではなく春の兆しを見て白梅に期待している。なかなか思いつけない期待であり、短歌だ。

*1:参考:「萬葉集(2)」日本古典文学全集

贈答答答答

 「贈答」ということばの「答」の字が、ほんとなら違う漢字なのでは? と思って調べるとこれであってた。「応答」が「こたえる」と読むふたつの漢字でつくられら熟語であるように、「贈答」も「おくる」と読む漢字ふたつで構成されてるのではと錯覚してたらしい。「贈る」と「答える」って同じようで反対の意味の漢字で作られた熟語だ。だれかが贈ったからこそ、初めてそれに答えることができるのではないか。そう考えると物や心が長いスパンで行ったり来たりしている気配があって、社会というか関係性って感じがする。ひとつの「贈」からはじまって、あとはお互いに「答」「答」「答」「答」……と繰り返されていくのかと思うと、関係性とはずっと途切れないもののように思えてしまった。……どの口がそんなことを言っているんだ? あわてて既読スルーしてしまっているメッセージを返さないとなと思った。

20230908

・味付け失敗
最近なすをよくレンチンして食べるのだけれど、味付けがやさしい時は皮を全部剥かないとおいしくないと気づいた。ぽん酢や生姜しょう油の時は残っててもむしろ良い。

・叙景も
前の記事の歌(万葉/八/1598)を選ぶのは、ちょっとチャレンジだった。あまり感情へ言及のない歌は、見たままだからあんまり書くことないなあと思って避けがちだったので。でも、なんかこの歌気になるしたまには、と思って書いてみると今まで考えないでいたことに光があたってよかった。

・内圧
自分の中で煮詰めておきたいことは、誰にも話さない方がいいと聞いた。裏を返せば、悩みはどこかに投げかけるだけで軽くなるってことでもあるのかも、と改めて(援用する資料が一つ増えたなって)思った。最近はちょっとポケモンスリープを気にしすぎな気もするので、ちょっと冷ましたい気持ちがある。……そもそもみんなポケモンと一緒に眠るなんて考えたことあるもんです? わたしはなかった。だってポケモンセンターに行けばポケモンはすぐ回復するし、ねむりは割に致命的な状態異常だし。だから、一緒に眠るならどのポケモンがいいかなって考えたのは初めてでした。フシギバナの近くで寝てみたい……。

20230808

・ずっと前からpillowsに許してもらっていた、というと少しちがうかもしれないけど、かっこいいと思っている先輩が、かっこいいだけじゃなく弱音も吐いていたから救われてるみたいなところがある。ここんとこ「そんな風にすごしたい」を聴いてる。

・最近気づいたのだけれど、きゅうり炒めると瓜って感じの味になる。茄子が好きだからかその変化は結構ありで、メインが淡白な時は躊躇なく油で炒めてる。

・言葉が心の輪郭になるなら、その言葉が増えるほど、感情はつぶつぶになっていくのかなとか考えてた。世代を重ねて人間は、遺伝子と一緒に文化を伝えて、そしてそれは細分化された感情を運んでいるということでもあるのかなとか。

・言語化をちょっとサボってたので、ふわふわしたことを考えがちになってると思う。歌はあんまり読んでいなくて、最近は何度目かのlandreaallを少しずつ読み返しつつ、エンタメを担保しながら構造と心とを織り込んでいく語りに興奮した。その時点がたのしいのに、あとあとにも効いてくるみたいなシーンが無数にある。うれしい。